寝子野家エレジイ｜リアクション

寝子野家エレジイ

　早川珪はあまり家事の類が得意ではないという。いつも清潔に身なりを整えて着飾っているからどうもそういう印象はないのだが、特に料理は不得手であるようだ。寝子高の白沢絢子先生主催の家庭科補習講座なども記憶に新しいが、大いに苦労する彼の珍しい一面を見ることができた。
　だから必然外食の機会も増えるというのだが、綾辻綾花はそこで少しばかり首を捻った。
「寝子野家ですか」
「うん。意外かな？」
　聞けばどうやら、利用頻度はそこそこに高いという。確かに決して高給取りとは言えまい独り身の教師には庶民の味方たる牛丼チェーン店はさぞありがたいことだろう。彼とて毎夜優雅にイタリアンとはいかないのである。
「いえ、美味しいですよね。じゃあ今日のお昼は寝子野家にしましょう」
「そうしようか」
　綾花も何度か食べたことがある。頻繁に通いつめたりはしないが、たまにはいい。彼と一緒なら牛丼ディナーだって乙なものだろう。
　寝子島にも寝子野家は何店舗かあるようだが、今日は旧市街でのしっとりデートのしめくくりをそこへ据えることにした。参道商店街を並んで歩く。呉服屋の店先の見事な着物に見とれ、このご時世に丹念な仕草で和傘を拵える職人の手さばきを称賛し、気になる和菓子屋を見つけて次はこのお団子を食べてみたいですねと笑い合った。
「そういえば最近、料理教室に通い始めたんです」
「お、そうなんだ。でも綾辻さん、もう料理は得意だよね」
　彼は少し意外そうに言ったが、何事も究めようと思えば際限がないものだ。恋心が後押しをするとなれば猶更である。
「一人暮らしを始めたので、栄養にも気をつけなくちゃって。それに……」
「それに？」
「珪さんがいつも、美味しいって言ってくれるから」
　それが何よりの理由だと気づいた彼がほんのりと頬を赤くするのを、綾花は幸せな心地で見つめた。

　まだ混み合う時間には少し早いらしくすんなりと入店することができた。窓際のボックス席に向かい合って腰かけ、メニューを開くだけでわくわくが募る。
「私は……牛丼としじみ汁にしようかな。珪さんは何にしますか？」
「そうだなぁ。じゃ、今日はシラス丼にしよう」
「いいですね、シラスは今が旬だし」
　注文をすると、数分も立たぬうちにテーブルへ品物が揃った。珪などは慣れた風だが、寝子野家が久しぶりの綾花は少々面食らってしまった。
「相変わらず、来るのが早いですね」
「本当にね。でも今日は少し遅いほうかな。そんなに急がなくてもいいのに、と時どき思ってしまうよ」
　全くだ。しかしまぁ薄利多売を地でゆく業態だから、回転が早ければ早いほど店にはメリットがあるわけで、程々に頑張ってほしいものだと額に汗して働く若いスタッフたちを眺めて綾花は思ったりする。
　そんなわけで忙しく立ち回る彼らに感謝しつつ、さっそく牛丼をいただくことにする。
「……んっ、美味しい！　しっかり味が染みてて、熱々で」
「安くて早いのに、ちゃんと美味しいのがすごいよね、寝子野家は。うん、シラス丼も絶品だよ」
「寝子島のシラス、美味しいですもんね」
　全国の寝子野家チェーンの中でも、特に新鮮なシラス丼が食べられるのは寝子島住まいの特権だ。次は綾花も頼んでみようと心に決める。しかしもちろん定番の牛丼の味わいだって格別で、しじみ汁もしっかりと出汁が出ていてじんわりと臓腑に染み入るようだ。
　ふと気づくと、目の前の珪が夢中でシラス丼をかっこんでいた。ホストさながらと言われたりもする身綺麗な彼がそうして丼を味わう様は何だか新鮮で、思わずほうと吐息をつきながらに見つめてしまったりした。
「……うん？　綾辻さん、どうかした？」
「好きだなぁ、って」
「えっ」
　慌てて付け加えた。
「美味しそうに食べる人って、好きだなぁって！」

　店を出る頃にはすっかり日が落ちていた。名残り惜しくもありつつ、宵闇と通りに灯り始める街灯の光のコントラスト、それに照らされる彼の横顔もこれがなかなか、悪くない。

「珪さんは、濃い味が好きなんですか？」
「まぁ寝子野家の牛丼もけっこう食べるけど、そのときの気分でいろいろかな……なんて言われると、綾辻さんは困ってしまうかな？」
　珪に手料理をご馳走するのは楽しいし幸せで、もちろん彼の好みに合ったものをと常に思うが、結局のところ重要なのは綾花の手で作ることに尽きるのだろう。
「ふふ、いいえ。珪さんは何でも美味しそうに食べてくれるから、作りがいがあります」
「それは良かった」
　道端にコロッケ屋を見つけたことを皮切りに、交わす会話は好きな惣菜の話で大いに盛り上がり、楽しい帰路となった。

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寝子野家エレジイ

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