真紅の月｜リアクション

真紅の月

　朝起きても夜寝る前も、そしてきっと夢の中でも、時間があるたび稲積柚春が考えるのはただひとつ、彼のことだけだ。
　ワット。
　ワット。
　ワット。
　ウォルター･Bのことしか考えられない。
　授業中でもそう、登下校のときも同じ。気を抜けばいつもそうなっている。もちろん入浴中でもだ。
　湯気に包まれ柚春は浴槽に身を沈めた。紅い月が昇る夜、浴室の窓からさしこむ光は微熱を帯びていて、彼の眼差しのように温かく柚春を満たしていった。
　無機質な天井を眺めため息をつく。
　今日はワットと学校で逢えなかった。
　足りないぶんは記憶でおぎなおう。なにせ柚春の記憶の戸棚には、『ワット』とラベリングされた収納箱がいくつもあるのだ。フタをそっと開けるだけでいい。
　授業中、外光が彼の金髪を輝かせる。その姿を見ているだけでため息が漏れそうになる。青い瞳で黒板を見つめて彼は、白いチョークで滑らかに板書する。終わると教団に両手をついて話しはじめる。彼の声は柚春にとっては心地よい音楽、響くたびに心が弾む。
　あるいは下校時の記憶だ。彼の姿を見かけると一日の疲れも吹き飛ぶ。ロイヤルブルーのスポーツカーが通りすぎると、透明度の高い残像が心に深く刻まれる。気づいた彼が車の窓から手を振ってくれる瞬間、その一瞬が永遠のように感じられる。
　記憶の箱は最近のものへと移った。
　お互いに幸せにしあうと誓ったあの日――。
　ウォルターは柚春を表現するのに『恋人』という言葉をもちいなかった。伴侶、パートナーといった表現ですらない。決定的な一言を避けようと困っているようにも見えた。
　でも、「ワットを幸せにするのは僕の役目」と伝えた柚春に彼が、「稲積を幸せにするよ」と返してくれたことは事実だ。しかも「僕はその何倍も」という珠玉の一言を添えて。もちろんこのやりとりは福豆に関する話だという注釈がつく。けれど重要な部分だけピックアップするのなら、現在あるいは将来の、ふたりの関係について言い切ったと考えてもいいのではないか。
　互いを幸せにしあう関係でいたいということ、それはつまり、
　恋人。
　あるいは想い人。
　もっと言えば、生涯をともにしたい相手。
　そのすべてとも解釈できよう。すくなくとも柚春にとっては、期待するなと言うほうが無理な話だ。
　彼とペアリングを買う約束をした記憶も新しい。ウォルターの表情、声、仕草、すべて鮮明に覚えている。ウォルターは気まぐれかもしれないがそのぶん、不意打ちのような愛情表現は深いものがある。人目がないときそっと手をつないでくれたし、優しく抱きしめ返してくれもした。お揃いの指輪をはめる未来がやがて訪れるという期待は、柚春の胸で日々膨らんでいる。
　露店で見つけて贈りあったピアスも素敵だったけど、指輪はもっと特別でしっかりしたものがほしいな。
　指輪。学生が手を出せるような店であっても、意外とたくさんの選択肢があるものだと柚春は学んでいる。
　ワットにとっては玩具のような値段かもしれないけれど、日常的につけやすい価格帯の方がむしろいいよね。
　対（つい）になるデザインのリングが、ふたりの指にかがやく日はそう遠くないと柚春は思っている。
　指輪を買いに行く日のデートコース、もう考えてるし。
　どうせなら当日は服も買っちゃおうかな。
　もやもやする。頭のなかにガスが溜まったような気分。
　ダメだな、もう。
　ワットのことばかり考えていたせいか、やっぱり一日に一言も交わさないままでいることに辛抱できないよ。
　柚春は湯から上がると急いで体を拭いた。
　まだ宵の口だ。電話するのに非常識な時間帯じゃない。
　それどころか、いまから会いにだって行けるくらいだ。
　柚春は着替えてスマートフォンを手にした。寝間着姿、頭には巻いたタオル、祈るようにしてアイコンをタッチして耳に当てる。