真紅の月｜リアクション

真紅の月

　雫（しずく）が表面をつたい落ちそうなほど、水気を孕んだ月だった。
　しかも紅い。血を思わせる色だ。
　気に入った。
　這い出るようにして居を出（い）でて、エレノア・エインズワースは紅く染まった夜の街を歩く。良い子はとうに眠る時間、草木だって熟睡の真夜中、といってもエレノアは良い子ではないし、草木ともなれば隔たることさらに遠い。春の日差しの木漏れ日を、楽しむ常人のように悠然と散策している。
　せっかくの夜というのに同好の士はないようである。たとえ表通りであろうと街ゆく人はまばらというより希（まれ）、しかも必要性があって仕方なく、『こんな時間』に道を急ぐ姿ばかりだ。せかせかしているようであり、妙に僻（ひが）みっぽいものを感じた。
　おやおや余裕のないことで。
　興をそがれないようエレノアは、裏通りを選び足を進めた。文字通り人っ子ひとりない影を。月の赤と夜の黒、そのふたつに支配された街のＢ面を。
　こんな夜は、ひょんな出会いに期待してしまう。
　といってもフタを開けてみれば――いやこの場合『夜が明けてみれば』か――期待外れに肩をすくめるのが世の常というもの、エレノアとて心から邂逅を願っていたわけではない。　
　だというのに、意外なことに。
　数メートルほど先、エレノアの前を横切ったのはスカジャン姿の少女だった。見覚えのある姿だ。
「もし」
　声をかけて呼び止める。
「貴方も紅い月夜のそぞろ歩きで？」
　ぬっ、と少女はまなざしをエレノアに向けた。ぞくぞくするほど危険な目だ。光っている。今夜の月と同じくらい紅い。
　少女は身を強張らせ、反射的に懐に手を入れた。
　たちどころに少女が懐から出した手には、鋭いアイスピックが握られていた。
　おや。
　エレノアは気づいている。
　彼女たしか、芋煮紅美とか。
　けれども『紅（くれない）』と呼ばれていたようだ。エレノアもそのほうが好みである。
「お久しぶりです。覚えてますか。私のこと」
　紅美は無言で肘を上げた。アイスピックを握っているほうの手だ。
「ご記憶のようで」
　エレノアの口の端がつり上がる。
「どうやらその感じ、元のひ弱なあの子ではないようですね」言いながらエレノアも、そろそろと背のバックルに利き手を伸ばしている。もう片方の手は水入りのペットボトルだ。飲みながら歩いていたものである。キャップは外れている。「へー、『芽』が出ましたか。そうなんでしょう？」
「おかしなまね、しないで」
　紅美はやっと口を開いたが、それはエレノアの聞きたい返事ではなかった。
「おねえさんの動きとわたし、どっちが早いかためしたりしたくないでしょ？」
「私は試してもいいんですけどね」
「こうかいすることになるよ」
「どっちが？」
　紅美が目を細めた。半月のように。
「せなかにまわした手、前に出して」
　紅美が言った。即座にエレノアは「あなたも」と返す。
　紅美も左手を背に隠しているのだ。
「やだ」
「お互い様じゃありませんか？　せーの、で一斉に、お互い隠したものをオープンするってのはどうです？」
「おねえさんウソつきっぽいからしんようできない」
「まあ嘘つきは事実ですけれども」エレノアは肩をすくめた。「私は卑怯者ではありませんのでね。自分から言った以上は約束は守ります」
　紅美は検討をしなかった。唐突に「せーの！」と言う。
　エレノアは左手を出した。水鉄砲が握られていた。
　紅美は左手を出した。紅い手帳のようなものを手にしていた。
「それなに？」紅美が怪訝な顔をした。「おもちゃ？」
「ええ、玩具です。水鉄砲ですよ。でも私にとっては武器です。ただしくは、私が使えば武器になる。以上、あらかじめ明かしておきました。卑怯でない証拠にね」
　心理戦だ。エレノアはとっさに、紅美に対して『貸し』を作った。
「なので今度はあなたが明かす番、その手帳……いや、パスポートのようですね。紅さん、あなたのものですか？」
　明かす義務などないはずだが、エレノアが即興で作った心理的な『貸し』がきいた。
「ちがう。これは千絵の。焼くつもりだったけど邪魔が入った」
　千絵？
「そういえば、『クラン＝G』でパスポートだけ盗まれる不可解な事件があったとか。その持ち主はたしか、ドイツかどこかに移住とも留学予定とも。なるほど読めてきましたよ」
　エレノアはすでに理解していたが、確認するためあえて口に出した。いや、紅美を挑発するためだ。
「芋煮紅美さんあなた、パスポートを奪って出国させない気ですね？　その千絵さんとやらを」
　ハッ！　ドンピシャときた。
　紅美が地面を蹴ったのだ。右手のアイスピックを振り上げている。

このページにイラストを設定する

真紅の月

シナリオ

シナリオデータ

シナリオスケジュール

参加キャラクター一覧