真紅の月｜リアクション

真紅の月

　ベランダに出て夜空を見上げる。
　紅い月、紅い夜。
　今夜、それに明日も、場合によっては明後日も月は紅いのだという。
　なんだかソワソワしますね。心が。
　読みかけの本も手につかない。部屋に戻って何ページかパラパラとやってはみるものの、どうしても物語世界の奥へと入っていくことができず、それどころか入口付近をうろうろするばかりだった。活字はドラマへとつながる鍵の役目を果たさず、ただの印刷物の羅列にしかならない。読もうとして手が止まり、目を上げて外を見て、また本に戻ろうとしたらもうどこを読んでいたのか忘れている始末。戻って読み直してみようとも結果は同じことで、気がつけばベランダに出て夜空を見ていた。
　これを試みること三度に及んだ。最初は、難解な本を読んでいるからいけないのかと思い、重厚長大な鍋敷きのごとき古典を本棚に戻し読みかけのライト文学へと移った。だがこれもダメかとわかって、対象を好きな作家のエッセイに切り替えてみた。けれどもエッセイの軽快な語り口すら届かないと悟って、とうとう七瀬は本日の読書を切り上げることに決めたのである。

　どうしてソワソワするのでしょうね。
　やはり月が紅いせいか。
　紅い夜に、何か過去の記憶でも呼び覚まされているのでしょうか。
　それとも人間の本能？
　ひょっとしたら狼男へと変身する前触れかも。
　おおそれかも。
　ガオー。
　いやそれはないなと苦笑して、七瀬はベランダの手すりに腕を重ねあごを乗せた。
　自分が狼男だとしたら、これはまたそのイメージに合わないことはなはだしい。文系の狼男、ちょっといただけない。好きな人との関係性を詰められず、気持ちだけは相手にも伝わっているはずなのに、つかず離れず『親しい』プラスアルファマイナスベータくらいの状況からポジショニングが変わらない。それはワイルドという言葉から、あまりにずれてしまっているではないか。
　ワイルドで粗暴でまずまちがいなく肉食のワーウルフよりは、日光に十字架にニンニクなど弱点の多すぎる（そしてインドア傾向の）吸血鬼のほうがまだ自分向けだと、そんなことまで考えたりもするのだ。
　うーん吸血鬼ですか。
　だとしたらなぜ、紅い月が気になるのやら。
　血の色っぽいから？
　だったらトマトジュースでもいいのではなくて？
　あるいは真っ赤な郵便ポストでも。
　赤けりゃなんでもいいのか？　僕は闘牛場の牛ですか。
　あーでも、牛って色の識別できてなくて、闘牛士が振るひらひらした布――ムレータっていうんでしたっけ――に興奮しているんだったかな。
　ふむん、月が気になるという発端から、ずいぶん遠いところへ連想がたどり着いてしまった。
　これで気が晴れた、といけばどれだけ良かっただろう。しかし実際のところ、七瀬はますます月に魅せられていることを自覚しただけだった。誘蛾灯に惹かれる羽虫のように。
　ええい、行ってしまおう。月のもとへ。
　もう早い時間とは言えないが、倉前七瀬はジャケットを手にしていた。
　街明かりがあると、どうもね。
　興がそがれるというか、月の紅さが薄れるように思えてならない。
　もっと近くで、もっと暗い場所で月を眺めてみたかった。とすれば、行く先はおのずと決まってくる。
　九夜山。
　七瀬には、九夜山について強烈な思い出がある。
　一言で言えば遭難しかけた。十二月の夜にひとり登山して、ひょんなことから山中に道を見失ったのである。折悪しくスマホのバッテリーも切れており本当に困った。
　あのときは、
「ああもうっ！　こんなところで何やってんだ倉前……倉前七瀬！　七瀬！」
　頬を打たれた。ウォルター･Ｂに。それも力一杯。
　ウォルターは七瀬を探しに来てくれたのだった。こってり絞られたが嬉しかったのも事実だ。遭難する直前、七瀬はほんの気まぐれでウォルターに写真付きのメッセージを送ったが、彼はこれを手がかりにして七瀬を見つけ出したのだという。
　夜に九夜山となると、どうもね。
　といっても十二月の件以後も、七瀬は何度か九夜山を訪れている。ほとんどは昼間だが、夕暮れどきもあった。
　今度はちゃんと、携帯の充電を確認しておこう。
　よく知らないところには踏み入らない。
　あと、ウォルターさんからもらった栞も持っていかない。
　自分に言い聞かせる。栞の紛失が、そもそもの件の発端だったからだ。
　展望台までのルートをたどるだけにしよう。目的は山そのものではなく月なのだから。
　でも家を出る前に、
『九夜山にお月見に行きませんか？』
　七瀬はウォルターにNYAINのメッセージを送っておいた。

このページにイラストを設定する

真紅の月

シナリオ

シナリオデータ

シナリオスケジュール

参加キャラクター一覧