恋人創ろうぜ！！｜リアクション

恋人創ろうぜ！！

　　【それは夢のようなとある一日】

　静寂から離れるように御巫時子が瞳を開けると、そこにはいつも一緒にいる鳥と、化学担当の教師、五十嵐尚輝がそこにいた。
　「おはようございます…」
　挨拶は朝の礼儀としても。
　時子にはすぐ分かる。鳥はどこかから入り込んで遊びに来たとしても、ここは自室だ。教師である尚輝がこんな所にいるはずがない。
　「本物…ではありませんよね…？　着替えたらいらっしゃった理由を聞かせてくださいね…」
　「は、はい…」
　「あ、あの…う、後ろを向いていてくださいませんか…は、恥ずかしいですから……」
　尚輝が慌てた様子で後ろを向き、髪の上から更に目を押さえる。
　やはり本物でなくても恥ずかしい。時子は純然たる乙女であるのだから。

　理由を聞き、やっぱりと納得しつつ二人と一羽の小さな集会はあっという間に終わりを告げた。
　せっかくなので朝食の準備に取り掛かる。尚輝があまり料理を得手としない事が予想通りに判明したが、せっかくなので二人で作ることにした。

　「ふむ、的確な魚の解剖ですね」
　「正確には解剖ではありませんが……。先生には味付けをお任せしてもよろしいですか…」
　「はい。軽量スプーンはありますね。…後はビーカーとピペットと──」
　自然と飛び出す実験器具の名前に小さく微笑みつつ思う。……こんな先生だからこそ、傍で見守りたくなるんだろうなと。
　「先生、ここはビーカーの代わりに軽量カップを…。料理はそれで足りますから…」
　「そうですか。奥深いようで実は……いや、しかし奥深い」
　軽量スプーンで砂糖から順に、時子に言われた通りに調味料を入れていく。
　「調理の基本と聞きましたが、『せ』とは何のことですか？」
　「『せ』はしょうゆのことですよ…。昔の呼び方がそうだったようですね…」
　魚に目を向けつつも丁寧に答える時子に、尚輝は髪に隠れた顔をこっそりとそちらへ向ける。
　「先生…？　どうかしましたか……？」
　「ああ、いえ。何でもないんです」

　朝食を終え、ビーカーが無いので普通のカップにコーヒーを持ち鳥の集まる縁側へ出た。
　「時子さんは、鳥に愛されているのですね」
　「聞いてみないと分からないですけれども…私は大好きですよ……」
　幸せそうに、柔らかく手の中の小鳥を撫でる。
　その様子をじっと見ていた尚輝が、珍しく自分から時子に声を掛けた。
　「あの、お願いがあります」
　「はい……」
　「僕は、今は先生ではありません。ですから……呼び易いように名前で、呼んでもらえませんか。『尚輝』と呼び捨てでも何でも」
　急の申し出に時子は目を丸くした。先生は、先生だ。
　……でも、目の前の先生は先生ではないし一日で消えてしまうから。
　それならいっそ。
　「……尚輝、さん……」
　「ええ…時子さん」
　その瞬間、髪の向こうの見えないはずの瞳が、優しく微笑んでいるように見えた気がした。
　こんな事あって良いのだろうか、そう思いながらも。いきなり敬称も無く、名前を呼んではいけない気すらするのに。
　見つめられて、呼ぶ事が、呼ばれる事が、こんなに幸せだなんて。
　
　夕暮れ時、尚輝の姿が霞みだした。それを見た時子の心は少し寂しくも温かい。
　「今日は一日有り難うございました…」
　そっと手を取り、微笑んだ。一日ばかりの偽りの時間かも知れない、しかしそれは何と心温まる時間であった事だろう。
　「僕もです…ありがとうございます。時子さん」
　その手を軽く握り締めて。その言葉を最後に、風に溶けるように尚輝の姿は消え去った。

　──いつか、本当にこうして名前を呼んでもらえる日が来るのだろうか。
　今は、その“いつか”を願うだけで、心が幸せに満ち溢れた。