「……素敵な教会、ねぇ？」
　本当にあるのかと、疑わしき目でウォルターが柚春を見つめているが、彼でなくたってそう思うだろう。
　薄暗いストリートでは、怪我をしてぐったりと倒れ込む人、避難を呼びかける警察。捜査に協力して欲しいと訴える探偵や居合わせた一般人などで溢れかえっていて、とてもじゃないが『素敵な教会』に期待はできない。
「地図では……確かに、この路地の奥って」
　意気揚々とウォルターの手を引き、先へ急ごうと言わんばかりに歩いていたはずの柚春は、いつの間にか彼の腕をしっかり掴んで後ろに隠れている。
「またアイツが現れたのか!?　ええい、忌々しい殺人鬼めっ！」
　スタッフたちによる迫真の演技は、ミステリー小説の世界に迷い込んだようだし、ノリがいいのか役者の卵なのか、その登場人物になりきって受け答えする客もいる。まさに『没入型』として別の自分を楽しめる場所だ。
　けれども、２人が求めていたのは別人になることではない。まして、殺人鬼と遭遇するかもしれないという道を、手を取り合って進むことでもない。……２人揃ってホラーが苦手なのに。
「別の場所も行ってみる？」
「そうだね、何かあるかもしれないし」
　しかし柚春の期待は空しく――あくまでアミューズメントパークとして生まれ変わったこの場所には、ロマンチックな雰囲気に浸れそうな場所は見つからなかった。



　一通り楽しめそうな物だけ楽しんではみたけれど……最大の目的である、指輪の交換が叶わないまま外に出ることになって、柚春も少々焦り始めたようだ。
（あとどこがあるだろ？　こうなったら、帰りのドライブでいい感じのところを見つけて……でも、せっかく）
　唸る柚春を一瞥すると、ウォルターは小さく息を吐く。
「今日はもう、帰る？」
「えっ？」
「行きたい所もないみたいだし……夜景もこの間見たでしょ。毎回遅くに帰すなんてできないよ」
　確かに、大人であるウォルターからしてみれば、そう言って柚春を諫めることも大切だろう。
（でも……）
　行きたい所を絞り込めないだけで、ないわけではない。特別な日にしたかっただけで、まだ一緒に居たい。
　そう言いかけて、柚春は気づいてしまった。ウォルターは今日、１度だって「どこで指輪をつけようか？」なんて聞いてはくれなかったと。
（やっぱりワットは、指輪のこと……）
　一緒に考えてくれたときの様子だと、今更つけたくないと思っているようには見えなかった。でも、ネックレスにして学校でも身につけて欲しいとか、我が儘もたくさん言った。……嫌になった可能性も、なくはない。
「あ……でも、せめて」
「ちょっと用事があって、寄りたいところがあるだけなんだ。何も、今から真っ直ぐ帰ろうってわけじゃない」
　幼子を言い聞かせるように微笑まれれば、柚春にはもう『嫌だ』なんて言えるわけがない。
　これ以上幻滅されないために、落ち込んでいることを悟られないように、「仕方ないね」と笑うだけだ。
（きっと、帰り道でいいところが見つかるよね）
　レインボーブリッジを渡り、ため息を吐きたくなるのを我慢して。寄るなら横浜かなと明るい話題で気分を上げていこうと思った矢先――車は、10分ほど走ったところで止まってしまった。
「ちょっと歩くかもしれないけど、来てくれる？」
「それはいいけど……」
（こんな近くで用事なんて、一体なんだろう？）
　まだ海沿いだし、お店も特になさそうで、彼の用事が全く思い当たらない。それでも１人待っているのも寂しいので、柚春はテクテクと隣を歩くことにする。
　そろそろ夕暮れかなと海を眺め、この辺りもお台場から見えていた景色なのかなと大きな道路を見て。
「こっちだよ」
　キョロキョロとしていた柚春が次に目にしたのは、大きなクルーズ船だった。
　遊覧船にしては大きいなぁと、遠目から見てはいたけれど……それが、目の前にある。
「えっ、乗るの？」
「夜景じゃなくて、ごめんねぇ」
　指輪が仕上がるまで日があったから、予約をしてたんだと笑うウォルターは、どれほど柚春が驚いているかわかっているだろうか。
「なんで、こんな……」
「ん～？　『楽しい船上パーティ』なら、こっちが好みかなって」

　――海浜公園のベンチで、マジックアワーからゆっくり楽しむのもいいな。クルージングにも色々あってね！

　あんな、些細なことを覚えてくれるなんて。
　船へ乗るための足場が悪いからと差し出された手を、柚春は力強く握り返す。
「ありがとう」
　感極まった声音に彼は苦笑して、そのまま柚春をデッキまで連れて行く。
　高いチケットでもないんだけどねと言う横顔は、少し照れているようにも見えた。
「わぁー……っ！」
　ゆっくりと恋人の聖地を巡って、ハートの航路を進むサンセットクルーズは、柚春にとって幻想的だった。
　海面がキラキラ輝いている様子なんて、寝子島でだって見られるのに。それでも、やっぱり特別だ。
　隣にウォルターがいる。『今は』恋人ではないけれど……好きだと告げてくれた大好きな人が、自分のために用意してくれた風景だ。目を輝かせない人がいるだろうか。
「ねぇ見てワット、あっちに……」
　ついはしゃいでしまった柚春は、振り返って驚いた。ウォルターが指輪の箱を取り出し、微笑んでいる。
「……ちょっとだけ、言っておかなきゃいけないことがあるんだ」
　好きな気持ちに変わりはないけど、そうと口にだせない場面もたくさんある。
　守ってあげたくても、立場や法律が許さないことだって……きっとある。
　まるで懺悔でもするかのように、ウォルターはぽつりぽつりと、ゆっくりとだけど海風に負けない声で、たくさんの想いを伝えてくれた。
「君にとっての１年は長いだろうし、悲しませもすると思う。……それでも、この指輪を僕とつけてくれる？」
　それは、人によっては狡いのかもしれない。ただのキープだと怒るのかもしれない。
　でも、柚春には……彼がどんな気持ちで告げているのかが伝わった。
（ほんとに……不器用なくらい正直なんだから）
　そっと右手を差し出して、涙を浮かべながらふふりと笑ってやる。
「その正直さに免じて、『今は』右手で許してあげる！」
「はは……そうだね『今は』だ」
　互いの右薬指に指輪を付け合い、見つめ合う。これが結婚式であれば、誓いのキスでもする流れだろうが――２人はまだ、そういう間柄ではないので。
「ね、覚えてる？　右薬指に指輪をつける意味」
「もちろん。さて、この指輪は吉と出るか凶と出るか――」
　苦笑するウォルターの左手をとって、柚春は口づける。薬指に、「約束だよ」と囁いて。
　サプライズを仕掛けたつもりだったウォルターも、黙ってはいられず同じようにやり返して「そっちこそ」と呟いた。

（いつか今日も、２人で振り返る日が来るのかな）

　そんな日が来たら、この指輪は左手に移っているだろうか。
　それとも、もっと特別な指輪をしているだろうか。

　――未来はわからない。だけど、描いていけると信じているから……今は誓いではなく、想いを告げる。

「ワット、だいすきだよ」

　夕陽で伸びる影が重なり合う。寄り添っているだけなのかを気にする人も、ここには――たった１人だけ。
　邪魔しないように物陰に隠れていた透破が、いつもと違い少しだけ優しそうな顔で、それを見つめていた。