春のような日｜リアクション

春のような日

1．おなじきもち

　その日は、珍しく気まずいムードがふたりの間に流れていた。
　仕事へ向かう彼——早川珪の背中にかける言葉もうまく見つからないまま、綾辻綾花はただその場に立っていることしかできなかった。
「……行ってくるね」
「……はい、行ってらっしゃい」
　いたたまれず言葉を発した珪に、かろうじて綾花も声を出せた。ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。

　きっかけは、何だったろう？
　覚えてないほどささいなことだった気がする。他愛もない雑談から話が逸れて、いつの間にかおかしな方向へ進んでしまって。
　望んでなった形ではないし、できるなら1秒でも早くいつもの穏やかで心地よい距離感に戻りたい。
　そしてそれは、珪も同じだった。
「気まずいまま出てきちゃったけど、どうしたらいいかな……」
　うーんと眉を寄せながら、珪は呟く。
　一緒に暮らし始めてもうすぐ1年。概ね平和に過ごせてきたとは思う。しかし距離が近くなったからこそ、余計に愛情を深め合ったからこそのすれ違いもある。どこかの歌手も「ふたりでひとつになれちゃうことを気持ちいいと思ううちに少しのズレも許せないせこい人間になってた」と歌っていた。
　愛の花は育ちすぎると、強いにおいを放って目眩を起こす。それにあてられると人は、普段と違う自分になってしまうのだろう。
　珪は仕事モードに頭を切り換えようとしつつも、彼女のことが離れなかった。いつも笑ってくれている穏やかな笑顔が。今朝さみしそうに投げかけられた声が。
「……」

　綾花もまた、彼のことで頭がいっぱいだった。
　掃除をしていても、ご飯をつくっていても、気を紛らわせようと読書をしていても。
「今朝の態度は、良くなかったですよね……」
　反省をしてはみるものの、謝る相手は今ここにいない。彼が帰ってくるまであと4時間ほどだろうか。いや、そもそも彼はちゃんと帰ってきてくれるだろうか。
　彼の性格を思えば不誠実なまねはしないと頭でわかっていても、心が弱気になっているとマイナスな想像をしてしまう。
「……よしっ」
　何かを決意した綾花は、バッグを手に取り家を出た。

◇

　夜になり、玄関のドアが開いた。
「おかえりなさい、珪さん」
「ただいま……えっ？」
　玄関まで出迎えに来た綾花を見て、珪が小さな驚きの声をあげた。
「どうしたんだい？　それは」
「あの……」
　ちょっと言いにくそうに、綾花が口を開く。
「朝は、嫌な態度を取ってしまってごめんなさい」
　言って、彼女は珪に小さな箱を渡した。白いハートの形をした箱だ。
「意地を張っちゃってダメですね、私。せめて珪さんへの素直な気持ちをそれに込めようと思って」
　開けてみてください、と促され、珪が箱を開けた。
　中に詰められていたのは、綺麗な一口サイズのチョコレート。ひと目で、手作りだと分かった。
「少し早いですけど、バレンタインです」
「もらって……いいのかい？」
「珪さんに受け取ってほしくてつくったんですよ」
　笑って言う綾花に、珪が言葉を返した。
「……僕の方こそごめんよ。年上なのに、子どもっぽい振る舞いをしてしまった」
　ううん、と綾花が首を横に振ると、珪は「それで……」と続けた。
「お詫びに、これを受け取ってくれないか」
　背中で隠していた、白い包みを綾花の前へと持ってくる。綺麗な赤いバラだった。
「珪さん……！」
「わっ」
　思わず綾花は彼に抱きついた。甘い香りがふたりの間に舞う。
「ど、どうしたんだい」
　戸惑いながらも綾花を受け止める。
「急に、こうしたくなりました」
　嬉しくて。花をくれたことも仲直りできたこともだけど、朝の雰囲気を嫌だと感じ、相手を頭に浮かべ、贈るものを考えてくれた。一緒の空間にいなくても同じ思いを持ってくれていたことが、綾花はどうしようもなく嬉しかった。
「ありがとうございます」
「ううん、僕の方こそありがとう」
　明日の朝は、いつも通りの笑顔で過ごせそうだ。