【バレンタイン】チョコレート・アンド・ファンタスティカ｜リアクション

【バレンタイン】チョコレート・アンド・ファンタスティカ

　せめて窓から温かな日差しでも入ってくれれば、少しは明るい気持ちになれるのに、今日は小雪が降っている。
　白く覆われた街並みは、きっと寒くて美しいだろう。
　とはいえ恋人たちは、寄り添う理由ができたと喜ぶかもしれない。

「……でも、仕事なのよね……」
　寝子島信用金庫の食堂で、森篠琳子はため息をついた。
　別に仕事が嫌なのではないが、いつもより人の少ない食堂にいたら、ちょっとだけ気がめいってきたのだ。

　しかし、聞き慣れた声に、うつむいた琳子の顔が上がる。
「まーたミケンにシワ寄せて！　もっとなあ、こうシワのばして、笑っとったほうがかわいいで」
　秋沢覚は当たり前のように、琳子の向かいの席に座った。
「こう」と言うところで、自身の眉間を伸ばすしぐさをするのが面白くて、琳子は少しだけ笑う。

　ただ、覚のほうも少々不満はあるらしい。
「けどまあ、土曜も仕事とはかなわんわ」
「ほんと、そうですよね」
　思わず深くうなずいて、同意を示した。
　しかし覚はにんまり笑って。
「けどまあ、琳子に会えたからよしとするわ」
（仕事じゃなくても会えた……と思うけど）
　そう思いながらも、覚の言葉は嬉しいもので。
　琳子は照れくさい気持ちを隠すように、用意していたチョコレートを取り出した。
「バレンタインなので、どうぞ」
「うわぁっ、チョコや！　ありがとう！　これ今すぐ食べてええってこと？」
　琳子を元気づけるためだろうか。
　覚はちょっと大げさくらいの声で言い、きょとんとした顔で聞いてきた。
　しかし琳子はきっぱりと。
「甘いものはお昼ご飯の後です」
　その言葉に、覚の眉がへちゃりと下がる。
「そんな、おかんみたいこと言わんといて」
　そのあからさまに嫌そうな顔つきに、琳子はぷっとふきだした。
　と、覚はにっこり微笑んで。
「そうそう、その笑顔や。琳子のかわいい顔もーっと見たいから、仕事の後、デートしよな？」
（……いくら人が少ないからって、職場でこんなことっ……）
　思うのに、琳子の胸はドキドキしている。
　おかげで声に出して返事ができず。
　琳子はただ一度、こくんとうなずいたのだった。

　無事、定時で仕事を終えた夜。
　琳子は覚に導かれるまま、星ヶ丘方面へと向かっていた。
（いつもはシーサイドタウンや旧市街に行くのに……）
　星ヶ丘といえば、高級リゾートエリアとして知られる場所だ。
　行ったことがないわけではないが、慣れた場所とは言い難い。
（星ヶ丘に、なにかあるのかしら）
　覚に聞いてみても、返事は「まあまあまあ」と笑うのみ。
　絶対何かある気はするが、何なのかは全く分からないまま、琳子が到着したのは、イソラ・ガレッジャンテの特設テラスだった。

「バレンタイン限定のオープンカフェがあるって聞いてな、予約してたんや」

　案内された波打ち際の席。
　ヨットハーバー全体を飾るイルミネーションに感動しつつも、困惑している琳子に、覚は言った。
「サプライズ、成功やな」
「……大成功ですよ……こんな……仕事があったし、チョコを渡せたからいいって、そう思ってたのに……」
　しかもカフェとは名ばかり、提供されたのは見事なコース料理である。
　当初琳子は、高級料理の数々に、あるいは、マナーなどを気にして、とても緊張していた。
　しかし覚は、そんな琳子に、ほがらかに笑いかけてくれた。
「そんなん好きにしたらええんや。俺は琳子の笑顔を見たくて、ここ予約したんやから。楽しく食べてくれたらそれで十分」と、そう言って。
　美味しい食事、美味しいワインに話は弾み、琳子の心もほぐれていく。

（こういう時間の過ごし方を『特別な時間』っていうのかしら）
　高校１年の時に父を亡くした後、琳子は家計を支えるために、バイトに明け暮れていた。
　当然恋愛どころではなかったし、母を支え、妹を守って生活するので精一杯。
　社会人になった今も、バイト時代より稼ぎは増えたが、暮らし自体はあまり変わっていない。
（ただ今は……覚さんがいてくれる。私にこんなうれしいことをしてくれる、大事な人が）

　つやつやのミルクチョコで覆われたケーキを前に、覚が「琳子」と名を呼んだ。
「このドルチェ、カップルでシェアするんやて。疲れてるやろうし、あまーいの、多めにしたろか？」

　たぶん、覚に出会えたことは、一緒に過ごせることは、奇跡だ。
　そう思うと、今この瞬間が、琳子にとってはなによりの宝物だと思えたのだった。

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