イケナイコトカイ｜リアクション

イケナイコトカイ

　フェンダーミラー。
　自動車の左右一対のバックミラーの位置がドアではなく、車外ボンネットの前方にとりつけられたものを指す。かつて乗用車といえばまずまちがいなくフェンダーミラーだった。
　ところがこの形状の乗用車は、いまではタクシーなど、ごく限られたものだけになってしまった。道を走る普通乗用車の大半は、ドアにミラーがついたドアミラー式だからだ。
　しかし珪の乗用車はクラシックなフェンダーミラー式である。レトロなのはミラーに限らない。車体形状もマッチ箱のように角張り肉厚だ。ヘッドライトは丸くて大きく、車体のノーズ部分も出ておらず平らである。にもかかわらずカラーは淡いたんぽぽ色で、昔児童公園で遊んだゾウの滑り台のように、どっしりとしつつも優しいイメージがあった。もうとっくに売られていない型番、だからこそ珪が大切に乗っている自動車だ。
　結論からいえば綾花はこの車が好きだった。珪らしい車だとも思う。
「久しぶりに遠出しないか」
　この車で、と珪は言ったのだ。もちろん綾花に否やはなかった。
　長く使い込んでいるからだろうか、シートからも珪の匂いがするように感じる。古いエアコン特有の甘い香とあいまって、独特の心地よさをかもしだす。リズミカルな独特のエンジン音も、気持ちよく骨を振動させてくれるのだ。
　珪の運転は慎重だ。ほとんど法定速度で走っていた。冬の寝子島の灰色が、ゆったりと後方に流れていく。
「いい香りだね」
　ふと珪が言った。
「車の匂いがですか？」
　はははと彼は笑った。
「車のほうは、ずっと乗ってるものだからわからないな。僕が言ってるのは綾辻さんの香水のことさ」
「気づいてくれました？」
「前、僕が『落ち着く』って言った香水だよね」珪は微笑している。「好きだな」
「今日、どんなお出かけになるのかわからなかったけど、落ち着くのならドライブにぴったりでしたね」
「そうだね。あ、着くまでは寝てていいから」
「寝たりしません」やや力をこめて綾花は言うのだ。「夢は家に帰ってから見ます。珪さんとの思い出を夢でまた見れたらいいなって思います」
「おっと、となると僕にかかるプレッシャーは大きいな」
　珪はめずらしく軽口を言って、島外に出るルートへとハンドルを切った。
「たまには寝子島の外に出てみよう。なに、昼前には着くよ」

　小高い山の山頂に目指す公園はあるという。
　麓のパーキングスペースに車は停まった。急勾配の坂を登る。
「疲れたら言って。休憩できるポイントならたくさんある。魔法瓶にお茶を入れてきたから」
　バスケット片手に珪が言った。
　たしかに坂道は楽ではなかったが、それでも息が切れるほどのものではない。さらに石段がはじまったがこれもなんとかなるボリュームだった。距離もたいしたことはなさそうだ。
　あ、でも……。
　綾花はあえて「少し疲れました」と告げた。
「じゃあ休もうか」
「いえ、もう少しなんでしょう？　まだ休憩はいいです」
　そのかわり、と綾花は右手を伸ばす。
「手、つないでもらっていいですか？」

　珪と綾花は手に手を取って歩く。

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