少し前までは身を切るように鋭かった風も、幾分か柔らかくなってきた。
　それでも、スプリングコートへ着替えるには悩ましい気温が続き、まだまだ温かい物が恋しくなる季節。
　春を迎えたのは暦ばかりだと嘆き、首を縮こめて歩く人も少なくない。

　けれどブティックでは、すでに冬服はバーゲンの後で残り僅か。代わりに並ぶ、明るい色合いの軽やかな新作たちでさえも、人気色は品薄という状態だ。
　そしてカフェも、バレンタインのチョコレートメニューを下げたかと思えば、今度はミモザや桜を連想させる可愛らしいスイーツを咲かせている。今年の開花予報もまだなのに、街中ではお花見が始まっているようだ。
　あちらこちらで見かける小さな春に、思わず「気が早いなぁ」なんて苦笑したくなってしまうだろう。
　でも、意識して周囲に目を向けてみれば……梅が香っていたり、鶯が懸命に鳴く練習をしていたり。もしかしたら花粉症の気配に怯え、この季節には良い感情を抱かない人もいるかもしれないけれど。

　春は、年明けとはまた違った大きな始まりの季節。
　新年度に何が待っているのかと考えるだけで、ワクワクが止まらず頬が緩んでしまったり。街がカラフルに彩られて、つい足取り軽く歩いてしまったり。
　入学式や入社式の歓迎会を兼ねたお花見に、苺狩りにイースターと、新しい出逢いや楽しいイベントが待っている、誰もが心躍らせる季節――それが、春のはずなのだけれど。

　寝子島高等学校に訪れた小さな春は、それだけではなかったようだ。



　担任からＨＲの進行を任された２年３組の級長は、どう切り出したものかと口ごもる。
　黒板には本日の議題が丁寧に箇条書きにされ、あとは話し合いを進めるだけではあるのだが、誰もが黒板から目を逸らし、しんみりとした表情で級友と顔を見合わせていた。
　もう２月も末となった寝子高では、近日大きなイベントが行われる。そのための会場設営や飾り付け、来場者の受付に３年生の胸元へ花を贈るといった式典の役割分担。それから別途有志によるお祭り騒ぎの発案を募るなど、決めなければならないことは山のようにある。
　……つまり、卒業式や生徒主体の送別会について話し合う季節がやってきたのだ。
　きっと在校生の教室では、同じように３年生を送り出すための相談が行われているのだろう。いつもは賑やかな声が聞こえてくるようなＨＲの時間は、しんと静まりかえっていた。

　部活や学校行事で特別お世話になった先輩がいる人はもちろん、そうでなくとも先輩たちの雄姿が目に浮かぶ人は多いのかもしれない。
　他の学校ではおおよそ体験できなかったであろうイベントの数々を、体を張って盛り上げてくれた先輩たち。
　引退した後も部活動に顔を出してくれたり、新居が決まったというのに寮にいてくれるから、深く実感はしていなかった。けれど――春が来るということは、もうすぐ卒業してしまうということだ。
　その晴れやかな巣立ちの日に、自分たちは何ができるだろう。物寂しい気持ちは簡単に拭いきれないらしく、浮かない顔で考え込んでしまう生徒たちを前に、担任も心配になって口を挟もうとした。けれど。
「先輩たちに、安心して寝子高を任せられるって思われる式にしないとな！」
　次は、自分たちが最上級生だ。そんな熱のこもった誰かの声を切っ掛けに、教室は賑やかになる。
　心配そうに見守っていた担任も、生徒に任せて大丈夫だと安心したのか、教室の隅に腰を掛けて暫し読書に興じはじめた。



　そうして話し合いの末、稲積 柚春は卒業式の準備会に入ることにした。
　個人的にお世話になった先輩には改めて何かするとしても、やっぱり華やかな門出にしてあげたい。
　……というのも、理由のひとつではあるのだけれど。堂々と居残りをしていいとなると、期待することだってある。
（今日は会えるかな）
　例えば移動教室へ向かうときや昼休み、それからもちろん放課後も。柚春はまっすぐ目的地に向かわず、少しだけ回り道をすることがあった。
　物怖じなく３年生の教室が並ぶ廊下を覗いたり、職員室の前を通ってみたり。それから外せないのは、英語科準備室。これらの場所に共通するのは、ウォルター・Bが居そうな場所、ということ。
　３年生の担任を務めるウォルターが忙しいのは、百も承知だ。それでも放課後の遅い時間であれば、少しお喋りをする余裕があるのではないかと考えた。
（やっぱり学校でも会いたしね）
　右耳で輝くロンドンブルートパーズ風ピアスをそっと撫でる。きっと今は、ウォルターの左耳には透明ピアスが付けられているのだろう。
　彼にも柚春からラピスラズリ風のピアスを贈ってあり、デートの際には彼の左耳を飾ることがあるけれど、学校では一方通行のままだ。
　同じピアスを２人で分け合えば、それが『好きな異性がいます』という意味にはなるのだが……残念ながら、同じ露天で買っただけで、２人のピアスは分け合うどころかデザインも異なっている。
　けれど、柚春はそれでも構わなかった。
　だって互いの瞳の色を交換したかのような石が、互いの耳元で輝くなんて素敵ではないか。
　いつかは学校でも付けてくれたらいいなとは思うけれど、今のところはデートに付けてきてくれるだけでも良しとしよう。

　ふふりと幸せそうに思い出し笑いをしているうちに、目当ての準備室についた。
　そっと窓から中の様子を伺ってみたが、どうやら予想は外れてしまったようで、ウォルターの姿はない。
　思わず零れそうになるセンチメンタルなため息を堪えながら、柚春はとぼとぼと昇降口まで歩いていった。