ただしい屋上の使い方｜リアクション

ただしい屋上の使い方

【小瓶の中には】

　一昨日は、海岸沿いの砂浜を歩いた。
　昨日は、旧市街の夜空の下を歩いた。

　今日も今日とて『芸術科の魔女』――旅鴉月詠はインスピレーションを求め、寝子島を歩いている。

　事の起こりは少し前。
　月詠は、長い時間見つめた白いスケッチブックの上に、ぱたりと手にしていた鉛筆を置いた事に起因する。
「………………」
　世界の八割はインスピレーション、残り二割は創作意欲。
　むしろ創作意欲など、そのひらめきや着想などが素晴らしければ勝手に後からついてくる。芸術家が命を削ってまで作品を生み出してしまうのは、つまりはそういう事なのだ。
　それが――真っ白。
　一般人は、適当にこれをまとめてスランプだと言うだろう。しかし、月詠には創作意欲だけはまるまると残されていた。これが一番の難題である。
『創作意欲があっても、ネタが無い』――両方が消え失せるよりましではあるが、芸術を紡ぐ者としては結構打撃的な状況ではあった。

　斯くして、月詠は寝子島散歩と洒落込んだ。電車ではあっという間ではあるが、歩くには寝子島という島も広く感じられる。
　創造性が、どこから出てくるかは全く想像もつかないが『インスピレーションは唐突に降りてくるものだ』と云うことを、月詠は知っているのだ。

　そして、今日の月詠は空が近い、とある屋上庭園にいた。
　吹く風は心地よく、ここはシーサイドタウンに最近作られた場所らしく、それなりに人もいるが、街中の癒やしスポットとして機能しているその場所の人々は静かなものだ。
　今日は予定が入っている。最近向かう場は静かな所が多いから、ここで何も着想が得られなければ、次の賑やかな目的地は丁度良いのかも知れない――そのような事を考えた時。
　人々のかすかなざわめきが聞こえた。

「おや、風船」
　空の向こう、屋上庭園に向かって様々な色をした風船が空を渡ってやってくる。
　しかも、その紐の下には小瓶が括り付けられているらしく、月詠が見ている間にもゆっくりと屋上の床にいくつかがこつんこつんと落下していく。
　人の頭にでもぶつかったら危険な上に、瓶を持ち上げられるだけの風船ひとつなど、そもそもが不自然極まりない状態だが、神さまが落ちて来て三年にもなり、この神魂による不可思議のるつぼともいえる寝子島に住んでいる人も大分慣れたものなのだろう。
　月詠がぼんやりと考察している間にも、人々の一部は既に浮かぶ風船や小瓶に手を伸ばしていた。

　芸術家には観察眼もとても重要だ。しばし人の様子を把握して声を聞き、自分も地面に落ちた小瓶を手に取り、その仕組みを理解する。
　開ければ一日も保たないだろう。だが、そのボトルメールを思わせる小瓶には己の欲しい物が出て来るという。

「――さて、」
　自分の欲しいものとは何か。
　己の心理に訴えかけて、例えば今、目の前に浮かぶ片手に収まるくらいの小瓶に手を触れれば、予想外の品のひとつでも出てくるだろうか。そう思い、手に取れば。

　瓶の中には、何も入っていなかった。

　月詠は、表情ひとつ変えることなく、それに納得してみせた。
　――そう『これは、出てくるはずがない』ものだ、と。
　月詠は、時間を確認すると素早くスケッチブックを取り出し、鉛筆で『それ』をラフスケッチに写し取る。
　そして、そのまま屋上を後にした。

　深夜。
　アトリエに戻った月詠が、スケッチブックのラフを元に、キャンバスに一枚の絵を描き上げた。

　それは『風船にボトルメールを括り付ける女性の絵画』――夜の空を飛んでいくカラフルな風船たちと、月明かりに光る小瓶の構図。
　女性は夜空の星の下で、風船たちを海へと飛ばす。
　翌日には、寝子島にも届くだろうか――
　
　小瓶の中には何もなかった。それは、あの光景を見た瞬間に、月詠の欲しいものは既に手に入っていたからに他ならない。
　もう一度、言葉を借り、繰り返すのであれば、
『インスピレーションは唐突に降りてくるものだ』と云うように――