スクール・コミュニケーション｜リアクション

スクール・コミュニケーション

　もうしばらくすれば生徒たちも教室に顔を見せ、いつもの喧噪が始まることだろう。青山絢は今少し朝の静けさと清廉を満喫すべく、胸に淀みない空気を吸い込んだ。
　早出は日直の仕事をこなすためだ。カーテンを引く。射るような陽光が絢の目を打った。抜けるような秋晴れに胸がすく。眼下では運動部の朝練が始まっていて、良く通るかけ声が白雲へ届くほどに響く。
　黒板消しで放課後のラクガキを綺麗に拭う。クラスメートの誰が書いたか、「カレシほしいよー！」なんてコメントにくすりと笑みが漏れた。学生にはおおむね共通の願いかもしれない。
　もっともこのところの絢には少々、複雑に聞こえる言葉だったが。
「ふう……」
　窓を開ける。埃とチョークの粉に満ちた空間から解放され、深く息を吸い込む。通い慣れた寝子島高校の空気も、早朝には違った香りを感じた。全てが清浄に思えるし、気分も昂揚する。全てが切り替わる朝、昨日までの汚れも淀みも置き去りにして、何もかもが美しく生まれ変わるかのようだ。
　階下の陸上部員に名を呼ばれる。よく見れば顔見知りだ。手を振り返し、絢も自然と満面の笑みを浮かべた。

　仕事をこなしてしまっても、ホームルームや授業が始まるまでにはまだ少し時間がある。クラスメートたちもしばらくはやってこないだろう。
　浮いたこの時間をいかように有効活用しようかと考えた末、ぼんやりと物思いにふけることにする。多感な思春期には考え事も多くある。これもまた有用な時間の費やし方だろう。
　先ほどチョークで黒板に刻んだ日付を顧みる。１１月。絢は三年生、この学び舎を巣立つ時まで、半年を切っている。
　寂寥はある。しかし焦りはない。幸いにして、というより絢の才能と努力によって、道は半ば開けている。絢は駆け出しの女優なのだ。まだ卵と表されるべきだが、既に女性アーティストのプロモーションビデオに出演の経験もあり、同じ道を志す同期の若者たちと比較すれば一歩も二歩も先んじているだろう。それでありながら、絢は慢心することもなかった。己の実力不足を冷静に分析し、この後は木天蓼大学を含むいくつかの大学の演劇学科を受験するつもりだ。
　その結果次第では寝子島を離れ、しばし勉学にいそしみながら、お呼びがかかれば俳優としての仕事と経験も積んでいくことになるだろう。そうと決まったわけではないし、受験などどう転ぶか分からないものだが、悲観的にはならない程度の自信もまたあった。絢は自己分析力にも優れているのだ。
「寝子島を出る。かあ」

　付随して、どうしても考えが及ぶことがある。避けては通れない。
「……さん」
　暑く、熱い夜だった。涼やか秋の朝とはどこまでも対照的ながら、今でも熱は絢を焦がし続けている。
　想い伝えあい、双方ともにとろとろに蕩かし合った。図らずも大いにのめり込んでしまい、翌朝顔を見あわせては煮え立つように赤面したものだ。
　じくり、と腹の奥に滾りを覚える。まだ朝も早いというのにはしたない。はあ、ふうと深呼吸をして爽やかな空気を吸い込み、気を紛らわす。
　といって、ごまかしようもないものだ。
「私は、彼女を……」
　愛している。
　意識すると恥ずかしくはあるが、そこに微塵の後悔もない。
　絢の道行きは一見順風満帆に見えて、事あるごとに障害があらわれることだろう。誰もが人生を思うがままに生きられるならこれほど楽なことはないが、きっとそんなことはないはずだ。しかし不安はない。
　愛している。愛されている。そう思うだけで、どれほどの力が絢の内に沸き上がることか。彼女の存在あらば、きっとどんな困難も乗り越えてゆけるだろう。
　廊下からにわかに喧噪が舞い込む。そろそろクラスメートたちも顔をそろえ始める頃だ。開け放った窓を閉じる。
　鏡のようにガラスへ映り込む己の顔を、絢は静かに眺めた。この瞳を彼女が覗き込み、この頬をやわらかく手のひらが伝い、この唇へ彼女と重ね合うのだ。
「おはよー、絢！　日直だっけ、早いねー。ご苦労さん！」
　振り返り、微笑んだ。

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