控えめにブラックフライデーのポップが飾らた文具店で、桜井 ラッセルは鍵のかかったガラスケースを眺めていた。
　艶やかな２段式の木箱の蓋が開き、筆が数種類とパレットなど、油絵に必要な一式が詰まった41色セット。キラキラ輝いていた瞳は、ちらりと値札のゼロの数を数え始めた途端、悟りを開いたような微笑みに変わる。
（うん、知ってた）
　だからこそ、趣味の延長で手を出すには気が引けて、今まで踏み切れなかったのだ。実質的な値引きはないものの、このセール期間はキャンパスを何枚かつけてもらえるらしい。お得ではないか。
（にしたって――じゅうごまん……？）
　その隣には紙箱ではあるが、最高級品と謳われる物もある。こちらは絵具のみ40色で７万円強。今なら指定メーカーの絵筆がついてくるらしいが、これも難しい。
　ううんと視線を滑らせて、下段に目をやる。最初に見た物より木箱も簡素だが持ち運びには問題無さそうで、絵具も12色。しかしペンチングナイフもオイルもある。習作用の名前の通り、今の自分にはピッタリだ。
　通常価格は２万円。けれど今ならオマケは何も無い代わりに、１万５千円と最初に見たものと一桁も違う。
（これなら……いや、まてよ）
　よく思い出せ。油絵を躊躇ってたのは画材の高さもあるが、匂いや場所だ。確か無臭や水溶性油絵具もあるらしいとは聞いたけど、これはどうだろうか。
　うーんと表記をひと睨みし、溶液に気を遣うくらいなら透明水彩もいいのではないかと、隣のガラスケースに目を移す。
　先の習作油絵セットとは比較にならないご立派な木箱に、陶磁器の筆洗いがついて115色セットが13万円。さすが鍵のかかった場所に飾られているだけあるな……と下段を見て、60色セットなら１万５千円。心機一転と何か買いそろえるなら、48色セットが予算的に良いだろうか。
　今までも絵は描いてきた。でもそれは、ごく狭い世界と対話するのに必要だったような……我流以上に学びたいことも思い浮かばず、美術科のある高校であるのに普通科で３年を過ごしたくらいには、思い入れのある趣味の域を超えなかった。
　だけどいつからか、画材は格好いい憧れの欲しいものから、未来を描くのに触れたい道具へと変わっていた。
（まだ上手く使ってやれないかもしれないけど）
　それでも触れなければわからない。失敗しなければ学べない。弘法筆を選ばずといったって、粗悪で伸びの悪い絵具に匙を投げるより、良い物を知って楽しく始めたい。
（大学では、美術をやるんだ！）
　この投資は無駄にはならないと自信をもって、商品引き換えのカードを手にしようとしたとき。福引きでも当たったかのようなガラガラと景気の良い鐘の音が鳴り響く。
「お時間限定！　メーカー混在、最低30色保証の高級水彩絵具50本セット！　５千円!!」
　予告でもあったのか、わらわらと周囲から人が集まってくる。戦場というほどでもないが、潤沢に用意されたとは言い難い紙袋はすぐに無くなってしまうだろう。
「水彩をあっちにしたら、油絵はもうちょっといいやつに……！」
　ラッセルは一目散に紙袋へと向かった。人を押しのけてまでという遠慮の気持ちはあるが、自分にだってこれは必要なのだ。勉強としても、趣味としても、これからを描くのに大切な物。
　そして、残り少ない紙袋のなかからピンと来た物を手に取る。あとはこれと、油絵のセットを買えば――
「ん、あれって……」
　惹かれるように寄ってみると、目に留まったのは木彫りのセットだった。
　趣味でやっているから、多少道具だって持っている。……でも、こんなに格好良い革ケースはないし。
　作りたい物で道具も変わってくるし、物が変われば削れ方も違うだろうし。……なら、油絵はどうしようか。
（木彫りに……そうだよ！　彩色すればいいんじゃねーか!?）
　名案が思いついたラッセルは、予算のギリギリを狙える組み合わせを考えて、満足いく買い物をした。



　――ブラックフライデーは戦争だよ
　そう七夜 あおいに言ったのは、己だけれど。八神 修は小型のデジカメを手に入れるのに一波乱巻き込まれてしまった。
（割引券があるんだから、朝から行く必要は無かったけど……いい勉強になったな）
　動画の知識と、現地の体感には差があることがわかっただけでも収穫だ。もみくちゃになってヘトヘトという表現が生ぬるいと感じる、まさに両者譲らぬ戦いで得られたデジカメ。達成感よりも先に、初期動作が心配になるほどの荒波に揉まれたが、まずは少し気力を回復したい。
　修は元気を分けてほしくて、あおいのほうはどうなっているかと確認のメッセージを飛ばす。
　明日はしぶき保育園へ寄付をする文具の買い物に行く。
　１度しか使えない優待券で、２人から公平に寄付となるように、今回はあおいの優待券を使って買い物をし、支払いは修が担当……とするにも彼女は納得しなかった。ので、あおいにはもう一仕事、スムーズに寄付をするため保育園への許可取りをお願いしているのだ。
（……うん、上手くいってるみたいで良かった）
　あとは、明日の買い物を効率よくまわれるように、今日の戦場の様子を怖がらせないように伝えて。
　セールなんかは彼女の得意とするところかもしれないが、子供たちの喜ぶ顔のためにも気合いをいれなくてはいけない。
　どんな画材がいいか迷わないためにも、少し下見に行こうか。そんなことを考える修がやけに元気だったのは――あおいから、『人混みで危なくない髪型ってどれだと思う？』といくつかのまとめ髪の写真が送られてきたから、かもしれない。