風邪を引いたら｜リアクション

風邪を引いたら

　恋人の身を案じるような心が自分にもあったのだと、朝鳥さゆるは己の変化を奇妙に思う。それが忌避すべき変化ではなく、むしろ好ましく思っていることに驚く。
「顔色が悪いわ。体調は？」
「倦怠感があって……ちょっと吐き気もするかな。頭もぼうっとしてるかも」
「風邪かしら。熱を測るわね」
「ええ……悪いわね、さゆる」
　姫木じゅんがこう弱々しくしおらしく縮こまっているのは、言ってはなんだが、似合わない。新鮮ではあるが、どうも調子が狂ってしまう。
「３８度２分」
「あー……やっちゃった」
　おどける声さえ力なく、かぼそく儚い。
　さゆるは肩をすくめる。
「仕方ないわね。今日は大人しく寝てなさい」
「でも、仕事が……」
「客商売でしょ。風邪引いて接客するつもり」
「う。それもそうよね」
　昨日帰ってきたときから、じゅんはだるそうにしていた。面倒な客の相手をして疲れちゃって、なんて話していたが、あるいは客から移されたものかもしれない。
　この上でさらに客へ風邪を戻すという悪循環を避けるべく、じゅんも今日一日はお休みとすることに同意した。
　じゅんが勤め先へかすれ声で連絡を入れている間に、さゆるは水や氷枕を準備する。
　どこかふわふわと浮いた心を自覚する。恋人の世話を焼くのが、こんなに楽しいものだとは。もちろん心配はするし、早く全快してもらわねばとも思う。それでも、自分ではない誰かを想って行動すると、こんなにも足取り軽くてきぱきと動くものか。
「電話、終わった？　じゃ、水と薬飲んで、寝てしまいなさい。氷枕も入れてあげる」
「ありがと……」
　カップにストローを差してやり水を飲ませていると、ふと開けっ放しのクローゼットが目についた。ハンガーにかけたさゆるの制服に、今日は休んで看病かな、などと考える。
「さゆる。あんた、今日学校は？」
　じゅんも気にかかったらしく、そう尋ねる。さゆるは再び肩をすくめた。
「じゅんを放っておけないでしょ」
「そう。行けるうちは行っておいたほうがいいと思うけどねぇ……」
　とはいえじゅんも、それ以上強くは言わない。一人になるのは不安らしい。さゆるも悪い気はしなかった。
　どのみち普段から休みがちなのだし、今日は割り切って休んでしまい、じゅんの看病に専念することとする。

　午後になると熱が上がってきた。すぐにぬるまってしまうので、何度も氷枕を取り替えた。
「苦しいの、じゅん」
「うん……少し」
「大丈夫よ。すぐに良くなるから」
「うん……」
　じゅんはさゆるに甘えた。手を握っているよう求め、離れると子犬のような目を向けた。
「食事、食べられそう？　少しは栄養も取らないと」
「ん……食べさせて」
　昨夜の残りのロールキャベツを小さく切り分け、じゅんの口へ入れる。滴る汁が口元へ伝い、拭ってやる。何だか背徳的な喜びを覚えた。
「食べたらまた薬を飲んで、しばらく眠りなさい」
「ん～。さゆるは？　どうするの……？」
「どうって？」
「いて……くれるの？」
　不安そうな上目遣い。実際薬の補充や、消化の良い食材など買い込んでくる必要がありそうだが、まあ眠ってからこっそりと出かければいいだろう。
　今は黙って、乱れた髪をなぞる。汗濡れた額へ、ついばむようなキスを降らせる。
「あたしはここにいるわ。心配しないで」
「ん……ありがと、さゆる……」
　やがて眠りへ落ちた彼女は、まるで同年代の幼さ残る少女のような寝顔だった。

　翌日。
　その後も献身的な看病を続けたおかげか、じゅんはすっかり快復したのだが。
「……もらっちゃったわね」
「ごめん……」
　立場は逆転し、布団へ入り見下ろされているのは、さゆるだった。移されてしまったらしい。
　あのキスがいけなかったか、とも思うが、何かと距離の近い恋人同士だから、いずれ移されたような気もする。
「気にしないわ。じゅんからのもらいものだもの」
「前向きね、さゆる」
　今日はじゅんが看病をしてくれるという。店からは少し余裕をもって数日の休みをもらっているらしいから、ちょうど良い。
「よろしくお願いするわ……じゅん」
「任せて、ばっちり完治させてあげる」
「でも、またじゅんに移らないようにしないと……」
「そうね、気を付ける。まあ……それも悪くはないけどね？」
　茶目っ気たっぷりにそう言って、彼女は片目をつぶって見せた。
　キスは止すことにする。どちらもすっかり健康体となったら、飽きるほどにすればいい。
　今はただくすりと含み、静かに笑い合った。

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