風邪を引いたら｜リアクション

風邪を引いたら

　夢を見た。美しいエメラルドグリーンの海を、ボードに乗り飛ぶように疾走する。
　傍らには恋人の弾けるような笑顔があった。

　中沢リッカルド町長の秘書を務める三折部朝衣。日々の仕事はまさしく激務である。情熱の人、リッカルドはとにかく足を使って動く。片時もじっとしていることがない。おかげでスケジュール管理は緻密を極めるし、時に突発的に動く彼のおかげで変更や調整もたびたび起こる。そもそも精力的な彼について現場を回ることからして大変だ。着任以来、朝衣は体力と知力の両方を酷使し業務に当たってきた。
　もっともリッカルドが朝衣を秘書として据えるのは、彼からの信頼と、朝衣の確かな能力によってのことだ。つまらないデスクワークよりよほどにやりがいある仕事だし、多忙なことにそう不満があるわけでもない。暇を持て余すよりずっといい。
　そういうわけで、少々頑張りすぎてしまったらしい。
「風邪なんて久しぶりに引いたわね……」
「無理をしすぎたんだよ。今日は一日、ゆっくり休んでなよ」
　同棲中の住沢遥人が、額に冷却シートを張ってくれた。火照った頭に、ひんやり気持ちがいい。
　遥人が心配そうに朝衣をのぞき込む。
「本当に、看病しなくていいのかい？」
「休むなんてダメよ。あなたの美味しい料理を待っているお客さんがいるでしょ？」
「それはそうだけど」
　彼は洋食レストランのシェフだ。仕事を休んでくれると言うのだが、そういうわけにもいくまい。
　ちなみに朝衣のほうは、町長から３日間の有休休暇をもらっている。そう告げた町長のどこか申し訳なさそうな声からするに、彼も少々働かせすぎたと反省しているのかもしれない。
「ほら、遅れちゃうわ。私なら大丈夫だから、仕事に行って」
「うん、じゃあ……行ってきます。お大事にね。何かあったらすぐに連絡するんだよ。水分はちゃんと取って、食事もできれば、食欲はないだろうけど食べて。それから薬は……」
「いいから、早く行きなさい！」
　無理に笑って送り出した。
　彼の気持ちはありがたいが、迷惑はかけたくなかった。それに一日付きっ切りで看病されるほどには、症状が重いわけではない。
　食欲はあまりないが、カットフルーツにヨーグルトをかけたものをもそもそと、ゆっくりと食べる。
「味が分からない……」
　食事は早々に切り上げ、ベッド脇にスポーツドリンクを用意し、布団へ潜り込んだ。

　そして、夢を見たのだ。
　碧緑の宝石めいた海。どこまでも続く空のブルー。色とりどりに鮮やかなサンゴ礁、ひらひらと踊る魚たち。
　南国のビーチに朝衣は立っていた。
　隣には遥人。揃いのウェットスーツに身を包んでいた。

　笑う彼と共に、海へ。どこまでも続くエメラルドの液体へ飛び込む。
　明晰夢というやつだ。夢の中でまでサーフィンなんて、どれだけ好きなんだろうと苦笑いする。
　良い波が来た。慣れたボードさばきで乗りこなす。高い波に乗り、同じくサーフィン巧者な遥人と併走する。
　疾走するうち陸はどこにも見えなくなったが、恐れはなく、遥人と二人、ただただどこまでも、いつまでも滑っていく。
　波と風とイルカだけが、二人の行く先を知っていた。

　目が覚めると、眼前に彼の顔があった。
「調子は？」
「うん……良くなってきた。おかえり」
「ただいま。挨拶のキスはお預けだね」
「もう……」
　どうやら現実に戻ってきたらしい。ずいぶんと寝てしまったが、そのおかげか体調は上向いていた。
　夢の中の疾走感が続いている。まだ波間に揺られているかのようだ。
「遥人。私、夢を見てた」
「どんな夢？　おかゆは卵と梅、どっちがいい？」
「梅。サンゴ礁で、遥人と二人、サーフィンをしてるの。ビッグウェーブが次々に来てね、陸も見えないんだけど、不思議と怖くなくて。二人でどこまでも、どこまでも」
　まだ熱っぽく、朝衣の語る言葉はいささかとりとめがない。
　それでも、彼はおかゆをあたためながら熱心に聞いてくれて、器を朝衣の前へことりと置き、言った。
「新婚旅行は、オーストラリアに行こうか」
　朝衣はきょとんと首を傾げる。確かに二人の同居は、結婚を前提としたものだ。
「オーストラリア……ってことは」
「うん。波に乗り放題。ずうっとサーフィン三昧」
「それって……最高じゃない」
「だろ？」
　うっかり抱き着いてしまいそうになり、自分を抑える。彼に風邪を移してしまいたくない。
「オーストラリアかぁ」
　夢の続きを夢見ながら、おかゆを口へ運ぶ。
　お腹も胸も、あたたまった。

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