今夜、なにする？｜リアクション

今夜、なにする？

●こんなに星の綺麗な夜には

　世界は時々不条理に時を進める、と思うことがある。
　本という名の紙の上のインクの染みの群れの中にどっぷりと浸かり、物語という名の深海からの旅から戻って息をつくと、室内はすっかり暗くなっていた。
　倉前七瀬は本を閉じる。
　余韻がじんわりと体の中に広がるのをしばし楽しみ、それから時計をちらと見遣る。
　もう少し、今日という日を楽しむ時間がありそうだ。

（ふむん……暗くなってきたとはいえ、寝るにはまだ早いですし……）

　次は何をしよう。
　そう考えつつ、ふと窓の外を見る。
　夜の空は晴れ渡っている。
（ああ、今夜は新月ですね……）
　月がない夜空は、ふだんなら月の灯りで見えなくなる星まで見えて、とても綺麗だ。
（そういえば、今日って外出しましたっけ？）
　思い返せば、今日は家でずっと本を読んでいた気がする。
（こんな天気のよか日にもったいないことを……）
　七瀬は本を置いて立ち上がった。
　今からでも遅くはないはずだ。散歩にでかけよう。むしろ夜の散歩は好きである。
（さて、どこへ……？）
　小首をかしげて思い浮かべた場所は――。

「夜の散歩、となるとやっぱり海ですよね」
　波音が柔らかく耳朶を打つ。
　寝子ヶ浜海岸の砂浜は静かで、ひとり歩く七瀬の心をゆるりと解かせてくれた。
　七瀬はほうっと息を吐いて空を見上げる。
「少し肌寒いですが、空気の澄んどって気持ちよかです」
　散歩の途中で買った自動販売機の缶コーヒーが手の中で温かい。
　浜辺に打ち上げられていた流木に腰を下ろせそうだったので、七瀬はそこで一息つくことにした。
　缶コーヒーを開け、空を見上げる。
「うわあ……」
　思わず零れる感嘆の声。
　満天の星。星。星。
　渦を描き、流れとなって、今にも零れ落ちてきそうで。
　七瀬は思わず手を伸ばす。
　届かないのはわかっているけど。
「掴んでみたくなりますよねぇ……」
　独り言に同調するように、波がざざんと打ち寄せてくる。
　七瀬はしばし、星と波がささやく物語に耳を傾けていた。
　口に含んだコーヒーが温くなったころ、ようやく七瀬の思考が動き出す。
「それにしても、こんなに綺麗な星空を僕だけ独り占めなんてもったいなかです。――そうだ！」
　七瀬はスマホを取り出すと、星空と一緒の動画を自撮りして、ウォルター・Bに送信した。
『今日は星がとっても綺麗ですよ。ウォルターさんも空を見上げてみてください』
　追伸。
『……それと、今度は一緒にお散歩しませんか？』
　しばらく待ったが既読はつかない。スマホをしまう。星空は相変わらずの美しさだ。
（……こんな時間に送って迷惑じゃなかったでしょうか）
　心を掠める寂しさに身を任せながら、ぼんやりと夜空を見上げていると、急に七瀬の視界に影が差した。
「こぉら。ひとりで夜の海なんて、危ないよぉ？」
「え、わ、ウォルターさん！？」
　勢いあまって背中から砂浜にひっくり返る。
　ウォルターは笑って、七瀬の体を引き起こしてくれた。
「びっくりしすぎだよぉ、倉前」
「え、だ、だってまさか……どうして？」
「どうしてって、動画送って来たでしょう」
「そうですけど……」
　まさか本人が現れるとは思わなかった。
「ウォルターさんが僕と同じように星空を見上げてくれたら嬉しいな、と思っただけで……」
「見上げたよぉ。で、お散歩するなら今夜でいいじゃない、と思ったわけ」
　それで来てくれたのだろうか。
　こんな、夜の海まで。
（なんて人……）
　嬉しくなってしまう。
　夜で良かったと思う。
　潤んだ瞳は、きっとバレない。
　ウォルターは、七瀬の手を取って歩き出した。
「月夜もいいけど、新月もいいよねぇ。星がとてつもなく綺麗だ」
「ですねえ……」
　言葉少なに夜空を見上げる。
　ただただ、同じ感動を共有する。
　こんなに星の綺麗な夜には――言葉はいらない。そう思った。

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