No Rain, No Rainbow｜リアクション

No Rain, No Rainbow

　ハイキングロードの１つは、寝子温泉を通過するルートだった。
　ちょうど肌寒いと思っていたところだし、足休めもかねて足湯に浸かるのも悪くない。風も強くない今なら、気持ち程度の屋根でも雨が吹き込む心配も無く暖まれるだろう。
　それくらいなら、と珪も気軽に誘いに応じたわけだけど。
　綾花は、スカートの裾を少したくし上げていた。
　とても長いスカートではない。かと言ってそのままだと裾が触れるかどうかだ、念のために対策をするのは悪くない。
「ふわぁ～！　珪先生、いいお湯ですね！」
　ぱしゃりと脚をあげてお湯をかく綾花は、靴を脱いで解放されたリラックスもあるのだろう。人気も無いし、ちょっと子供っぽくはしゃぐのも可愛らしい。
　ゆるゆるとした顔でいられるのは、信頼してのことなんだろうけど。
　目のやり場に困って、不自然にならないように見上げた屋根裏から、どう視線を下ろしたものか。
　ひとり作戦会議をしようと思った珪の視線の先に、猫がいた。
「綾辻さん、あの猫は？」
「え？　……あっ、あのにゃんこです！」
　勢い良く立ち上がって、その声に驚いた猫は数メートル先まで逃げ出してしまった。
　綾花もスカートをたくし上げていたことを思い出して慌てて裾を戻し、珪もその様子を見ないように背を向けて、猫を追う準備を整える。
「足元、滑らないように気をつけてね」
　びっくりさせないようにと歩み寄っても、ぱしゃりと水たまりを踏めば猫は耳をぴくりと震わせ、こちらを見やる。
　じっと、じぃっと綾花を見つめ、珪を見つめ。
　お互いに一歩も動けずな中、先に走り出したのは猫だった。
　温泉街の屋根に乗ったと思えば小道に降りてくるし、獣道を走って見失ったかと思えば木の上に乗っていて。振り回されながら追いかけた先には、展望台が見えた。
　風が吹けば霧のような雨が頬を撫でるけれど、それでも先ほどまでと比べたら小降りになっている。
（もしかして、雨が止むのかな……）
　あの猫は、何かを知らせてくれたのだろうか。
　いつものように晴れるなら、今から展望台をのぼれば――きっと。
「行ってみませんか？　展望台！」
「え、この天気の中？」
　曇天の中では遠くまで見渡せないし、特別な展示をやっているような展望台でもない。見る所なんて何も無さそうで、珪は少し驚いたように綾花を見ている。
　普通ならそうだ。キラキラに輝いた海が見える晴天に恵まれた昼間や、夜空と夜景の境目がなくなるような夜間の景色を誰だって見たい。そう考えてしまうのもわかるけれど。
「珪先生、知ってますか？　……雨は、やむんですよ」
　どんなに雲が厚くたって、雨雲の端が見えなくたって。薄暗く見える昼間であっても。
「雲の上には青い空があって……一番乗りでそれを見られると、いいことがある気がしませんか？」
「……一番乗り、か。じゃあ綾辻さんより先に見つけないとね」
　負けませんよと笑う綾花に微笑み返し、珪は頭上を仰いだ。空なんて見えそうにもない雲だけど、しとしとと降らせていた雨は傘がなくても気にならない雨量になっている。
　雨はいつか止む。けれど雨は、再び降る。
　何度も思い返してしまうその記憶に、心を揺さぶられない日が来ると……今は、思えないけれど。
「珪先生？」
「ううん、行ってみようか」
　雨なのはその日だけじゃないと、知れるかもしれないから。

このページにイラストを設定する