あなたの望む過去｜リアクション

あなたの望む過去

　人間で例えれば、そのビルは完全に死んでいた。皮膚に相当する壁の一部は著しく傷つき、骨のような鉄骨が露出していた。応急処置の青いビニールシートも破れていて延命には繋がらなかった。
　その死に絶えたビルの一階から生々しい息遣いが聞こえてきた。興奮が頂点に達しているのか。若者の言葉にならない下卑た嗤いが混ざる。
「……や、やめて」
　年端のいかない子供が怯えた目で後退りをする。恐怖に足の自由を奪われ、薄汚れた床に仰向けに倒れた。勢いでフリルのスカートが太腿まで捲れ上がる。慌てて手で隠そうとすると、その手首を握られた。
「そうはいかねぇなー」
　若者は子供の両手首を握り、床に磔にした。動きを制限する目的で子供に跨る。
「なにも悪いことしてないのに」
　子供は両足をばたつかせた。微々たる抵抗に若者は興奮の度合いを深めていく。
「もう、我慢できねえ」
　子供の両手を片手で封じた。もう一方で襟元に指を捻じ込み、スカートの辺りまで引き千切った。
　若者は子供から飛び退いた。白い肌に無数に付いた痣は死の病に侵されているように見えた。しかも、パンティには有り得ない小さな膨らみがあった。
「て、てめえはなんなんだ」
　言葉を吐き捨てて若者は逃げ出した。
　残された子供は無残な姿で起き上がる。
「……僕だって、なんなのかわからないんだよ」
　その場面を黙って見ていたジニー・劉が大きく手を振った。すると映像は一帯に取り込まれて白一色になった。
「今でも八歳の時の誘拐未遂を見せられると、いい気分はしねーな」
「申し訳ありません」
　タキシードの人物がジニーに向かって頭を下げた。
「まあ、いいや。話を進めようぜ。俺の女装が不幸の始まりだ。亡くなった姉の代わりをお袋が俺に押し付けた。逆らえば、あの痣のような虐待が待っている」
「お客様の心中、お察し申し上げます」
　相手の態度にジニーは、よせよ、と軽く流した。
「このあと、俺は警察に保護されて両親が呼ばれた。お袋がおかしくなって、家から遠ざかっていた親父もさすがに顔を出した。この時に気持ちを吐き出してたら、と思わなくもねーかな」
　ジニーは軽い言い方ながらも、さらりと本音を潜り込ませた。

　薄茶色の毛布で身体を包んだジニーがベッドの縁に座っていた。視界には剥き出しの便座が見える。
　そこに母親が現れてジニーを押し倒す勢いで抱き締めた。
「女の子なのにこんな姿にされて」
　その後は言葉にならない。母親は号泣した。父親は白けた様子で見ていた。
「子供の身体の痣について、お聞きしたいのですが」
　制服を着用した警察官の一人が間近にいた父親に視線を向けた。
「俺が知るかよ。この薄気味悪い女に聞け」
　父親は迷惑そうな顔で母親を見やる。ジニーと視線が合うと、唾を吐き捨てるような態度で目を逸らした。
　渦中にいるジニーが弱々しい声ながらも切り出した。
「……もう、姉さんの代わりはウンザリなんだよ。着せ替え人形も、ぶたれるのもイヤだ」
　警察官の目がジニーに集まる。抱き締めていた母親は我が子から離れた。信じられない事実を否定するかのように顔を病的に振った。
「父さん、家に帰ってきて。母さん、もうぶたないで……僕は女の子なんかじゃないんだ！」
　白目を剥いた母親が我が子に襲い掛かる。それを警察官が阻止した。耳を覆いたくなるような絶叫を上げた。

　その後の顛末を体験したジニーは愚痴にも似た呟きを口にした。
「お袋は精神崩壊。親父はさっさと離婚で雲隠れ。俺は施設送りってか。ろくな結末じゃねーな」
　一礼して見送る相手に、よせよ、と軽く言った。
「はは、馬鹿みてえ」
　ジニーは乾いた声で館を後にした。

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