あなたの望む過去｜リアクション

あなたの望む過去

　異空間に等しい白さを目にしても松崎竜平に動じた様子は見られなかった。背広の前をはだけて両手をズボンに突っ込んでいた。
「居酒屋と思って入ってみれば、妙なところに出てきたもんだ」
「いらっしゃいませ。当館はお客様が希望する過去を提供しております」
　白いタキシードの人物は滑らかな口調で言った。相手に見せつけるかのように竜平は自らの頭を平手で叩いた。
「スキンヘッドの強面を相手に、店主さんやるねぇ。与太話の類いだが、疑ってもつまらねえ。その話、乗ってやるよ」
「過去の選択で未来を変えることはできません。どうか、ご了承ください」
「そんな虫のいい話は、この世の中にはねえと思ってやすぜ」
　竜平は凄みのある顔で笑った。過去か、と口にして目を伏せた。
「誰にも人生に一つくらいの後悔はある。俺にもあった。今から二十年以上、昔のことだ」
　当時の自分が戻って来たのか。若々しい口調になっていた。
「俺は道端で泥酔している女を見つけた。事情を聞けば、なんてことはない。付き合ってた男に捨てられ、自棄になって部屋を飛び出したそうだ。そんな女を俺は持ち帰った。気があったのか。五年も一緒に過ごした」
　竜平の表情に変化が表れた。強さの中に潜む寂しさが目の奥で揺れている。
「そんな時に女の両親に居所がばれちまってな。面と向かって言われたのさ。娘を幸せにできるのか、ってな。俺はヤクザもんだ。そんなことを保証できるはずがねえ。俺は女を諦めた」
　竜平は浅く瞼を閉じた。思いを巡らせるかのような間を空けて、口を開いた。
「今の組長はカタギの女を娶った。それで思っちまったのさ。俺もああすればよかったのかも知れねえ、ってな。店主さん、少しでいい。違う過去を俺に見せてくれねえか」
　巨体に似合わない、とても穏やかな声であった。

　月のない夜。家々は深い闇の底にあった。信号機は具合の悪い街灯のように点滅を繰り返す。
　その中、竜平は片足を引きずるようにして歩いていた。唇の端は青紫に膨らんで血が滲んでいる。
「さすがに寝ているよな」
　暗い我が家の窓を見て竜平は軽く息を吐いた。施錠を解いて、そっと扉を開いた。
　玄関に闇がうずくまっていた。瞬間的に竜平は壁のスイッチを押した。
　蛍光灯の白い光の中に妻がいた。髪は掻き毟ったかのように乱れ、両足を投げ出して座っている。
「明かりも点けないで、なにをしてるんだ」
「……あなたこそ、こんな時間まで、なにをしてたのよ」
　身じろぎもしないで妻が返した。やや顔を上げて竜平の太腿を指差す。
「その細い穴、刃物よね」
「これは大したもんじゃない。その、あれだ」
「転んだなんて下手な嘘は結構よ」
　妻は怒気を孕んだ声で言った。竜平は背筋を伸ばした。表情が厳しくなる。
「組長を守る為には必要な怪我だ。お前が口を出すことじゃねえ」
「出すわよ。妻が夫の心配をするのは当たり前じゃない！」
　妻は叫んだ。抑えていた不満が連鎖した。竜平の声の制止を無視した感情の奔流が止まらない。
　竜平の平手が飛んだ。妻は頬を打たれて仰向けに倒れた。そのままの姿で、さめざめと泣いた。
　竜平は一言も声を掛けず、部屋の奥に入っていった。
　翌朝、妻が消えて一枚の離婚届が残された。
「紙切れのように薄い関係だったな」
　竜平は自嘲気味な笑みを浮かべた。

　白い空間に戻った竜平は晴れやかな顔をしていた。
「やはり、女より組を選ぶのか」
「同じ結果になることは時にございます」
「おっと、勘違いしないでくだせえ。今回の結果には満足してますぜ。身寄りもねえ俺を拾ってくれた組長との絆は、あんなに薄っぺらくはねえってことでさ」
　竜平は肩で風を切るようにして館を出ていった。

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