光を正と言えなくても闇から目を背けない｜リアクション

光を正と言えなくても闇から目を背けない

　机に突っ伏したまま寝ていたのだろうか。
　ゆったりと上体を起こして数度瞬いた青山絢の目に飛び込んできたのは、がらんとしたビアガーデン。従姉妹と約束をして、久しぶりに父と会った時と同じ席だった。
（……何？）
　次に瞬けば、母の葬儀の会場だった。世界が終焉したかのようにも思えたあの日、痛々しいほどに涙する小さな自分の背にそっと触れる。その姿が霧散して次に形作るのは、父の姿だった。
（この日、は）
　これが良い思い出でないことは一目で理解した。その口から紡がれる、母を冒涜する言葉など聞きたくない。キィンと響くような頭痛がして、思わず頭を抱え込んだ。
「……ねえ、そこのお人形さん？」
　聞こえてきたのは、父の声では無かった。ザリザリとノイズがかったモノクロの世界の中で、艶やかに佇むのは――絢と同じ背格好の「ナニカ」だ。顔立ちも同じはずだけれど、不敵に微笑む不遜な態度は鏡写しとは言いがたい。
「お人形さん……いえ、あなたには名前があったわよね。絢……私と同じ名前」
　『私』が彼女と同じなのか、それとも『彼女』が私と同じなのか。何をもって己こそがと言えるのか、絢にはわからない。だって。
「感情の欠けたお人形が『私』なわけないじゃない」
　嘲笑する笑みを否定できなかった。人形と揶揄する言葉を、事実として受け入れるしかなかった。
　それは自分が痛いほどにわかっていたから、言い返すこともできず困惑のような笑みを浮かべるしかない。
「いつもそうね。あの日から、あなたは泣くことすらできなくて、泣くかわりに、ただ微笑むようになった。それも……無色透明の、感情のない、ね」
　泣いたところで、何も変わらないと悟ったからだ。
　涙一粒で奇跡が起こるのなら、涙の洪水で悪い物が流れていくなら、いくらでも泣きわめいただろう。
　けれど母は生き返らない、父が穢らわしいことをした事実も消えない。確定してしまった物事に、感情を昂ぶらせて何になるのだろうか。
　それなら周囲が困らないように、大人しい私であるように笑って流すほうが建設的だ。――そう信じて、心の柔らかい部分を守ってきた。
「可哀想にねぇ……お人形さんは座っていれば良かったのに」
　クスクスと笑いながら見つめる瞳は冷ややかだ。何も期待などしていない、現状打破など出来るはずもないと嘲笑っている。目を逸らしたいのに、絢は蜘蛛の糸に絡め取られたように動くことは叶わなかった。
「……絢、女優になりたいんでしょ？　でも涙の一つも流せないんじゃ無理よねえ？」
　もう一人の絢は、一瞬で笑みから憂いへ表情を切り替え静かに涙を流す。こんな日が無ければと、父の姿を睨みながら激昂と共に拭っても止まらぬ熱い涙をも見せる。
　様々な泣き方が不自然無く繋がっていき、最後に自嘲するように微笑んだかと思うと、その視線は絢へと向けられた。
　――あなたには無理でしょうけど。
　そんな挑発が込められた笑みだった。
（あんなに自然に泣けるものなの？）
　今までどうやって泣いていただろう、どんな時に、どんな気分で泣くのだろう。涙の熱さも色も抑え込んできた絢には、哀しみに紐付く引き出しが少ない。
　感情表現に難のある女優など、話にならない――そう思うと、怖くなった。『お人形』の自分には何もないんじゃないかと。
「いや……いやよ！」
　そう叫ぶと、絢は堰を切ったように泣き始めた。声を上げ、拭いもせず、ただ絶望して。
「そう。それでいいのよ、絢」
　心が壊れ、そのヒビに住人が住み着いた始まりだった。

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