夏霞の赤い月　Ghost Festival Moon｜リアクション

夏霞の赤い月　Ghost Festival Moon

　綾辻綾花は心臓が飛び跳ねる音と共に、一人の男性から目が逸らせなくなった。
　狼の耳付きパーカーを羽織り、フードもしっかり被って。黒い前髪が少し目にかかっていて顔も視認し難い。
「あのっ！」
　どうしてこんなにも『彼だ』と思うのかはハッキリとわからない。
「君は……」
「綾花です、綾辻綾花……あの、一緒にお祭りを楽しみませんか？」
　だけど簡単に引き下がってはいけない何かがある気がした。
「綾辻さん、だね？　早川珪です、よろしく」
　ふわりと微笑んだ顔がどこか困惑していて、無理を言ってしまっただろうかと申し訳なく見上げる。
　すると珪は、気にしないでと苦笑した。
「僕の知っている子にもね、綾辻さんって子がいたんだよ」
　一目惚れのように惹かれた彼が他の女性のことを口にするのは苦しいのに、何故だろう。嬉しいとも思う。
「……どんな子でしたか？」
「とても優しくて面倒見の良い子だよ。いつも頑張ってて」
　じっと綾花を見つめたかと思えば空を仰ぎ、霞がかった赤い月を見る。その眼差しはどこか寂しそうで、何かを吹っ切るように笑った。
「君みたいに可愛い子だった……なんて言ったら素敵な夜になるかな？」
　お手をどうぞ、と言わんばかりに差し出された手に、綾花はおずおずと自分の手を重ねる。
　珪の手は穏やかな温かさで、自分1人舞い上がって熱を上げている気がして恥ずかしい。けれど、こうして手を繋いで出かけることに憧れていた気さえする。
（どうして？）
　彼の表情にも仕草にも見覚えがあって、こんなに心を掴まれてしまうのは。
　気のせいだとは思えなかった。

　透かし紙に切り絵を施したり色を塗ってキャンドルランタン作り。
　その間、ぽつりぽつりとお互いのことを話して二人とも本が好きという共通点から、どんなジャンルを読むのかと盛り上がって――同じ風景が見えたような気がした。
　ここではない、猫が沢山暮らす島の学校で。図書室によく出入りしていたような。
「珪さん……」
「なに？」
　ランタンを岩場に並べようと運ぶ途中で、言い知れぬ不安が綾花を襲う。
「珪さんの覚えている『綾辻さん』は、貴方をなんて呼んでいましたか？」
　ふんわり思い浮かんだもう一つの島の出来事が、例えば前世みたいなものだったとして。綾花はその生涯を覚えているわけではない。こことは違うルールもあったかもしれない。それでも。
「彼女は僕を『珪先生』と、そう慕ってくれていたかな」
　先輩や後輩といった距離よりも、もっと遠くの人に恋をしていたのなら、今の珪も遠くに行ってしまうんじゃないかと、怖くなった。
「こ、この島に先生として赴任の予定……っ」
「ないよ。……君が『珪さん』って呼んでくれるの、実はちょっと照れくさいけど訂正しなくていいんだよね」
　そのはにかんだ笑顔が、幸せな記憶を呼び覚ます。楽しくて、嬉しくて、いつも彼を追いかけた。
　きっと全部じゃない、ページの抜けた記憶。
「過去も現在も私は貴方に恋をしてるみたいです」
　さして驚きもせず、珪はありがとうと微笑んだ。手慣れた大人のあしらいに、綾花は繋いでいた手を引っ張る。
「珪さんが獣人でも人でも……幽霊でもっ！」
「……じゃあ、来年もお祭りに来ようか」
　ランタンを置いた珪は、フードを取りしっかりと顔を見せる。その身体が、ほんのり透け始めていることも。
　彼は約束を違えない人だと思う。だからお祭り以外で会えるかはわからないけれど、この日であれば。
「このランタンしっかり覚えて下さいね、来年も灯しますから」
「……うん」
「大好きです」
　その笑顔に引き寄せられるように、珪は綾花へ顔を寄せたけど――この夏は、綾花の頬を潮風が撫でるだけだった。