ハッピーバースデー！　８月☆｜リアクション

ハッピーバースデー！　８月☆

【思い出の顔】

　夢を見た。
　まるで少年のような無邪気をたたえた祖父の、しわくちゃの笑顔。いつもは理知的な彼が毎年その時ばかりは、孫と同じ目線で喜んでくれた。
　そっと頭を撫でた優しい手のひらの感触を、今でも覚えている。

　下着姿のまま目覚めた。ためらいなく、億劫そうにそれらを脱ぎ去ると、けだるい身体をシャワーへ運び、熱い湯を浴びる。いくらか頭が覚醒してきたらシャワーを出て、身支度を整える。滑らかでつややかな肌や均整の取れて絶妙な丸みを表す肢体を眺める誰かもおらず、クローゼットから引っ張り出した新しい下着と、白基調のゴシック調ドレスでそそくさと包み隠した。
　普段から黒を好む葉月だが、今日は特別な日だ。特別な装いも良いだろう。
　かちこちと鳴る針を見やれば、午後１時。
（大丈夫。まだ時間はたっぷりある）
　今はもう別段約束があるというわけではなかったが、それでも毎年繰り返すうち恒例の、ある種の儀式として自分の中へ定着してしまった。
　見てくれる者もいないというのに。
　棚に収めたスケッチブックを取り出す。無造作にページを繰り、ぴたり目的のスケッチを開く。
　そこには葉月自身がいつもの無表情のまま、巧みな筆致で描かれていた。

　孫の粋な計らいを、祖父もまた毎年の楽しみとしてくれているようだった。
　贈った自画像は何枚になったろうか。誕生日が来るたび葉月は自身をスケッチし、成長の記録として祖父へ手渡した。何年目からだったか彩色もするようになり、祖父は一年ごとに色づいてゆく孫の健やかな成育を喜んだ。
　彼が幾度となく、葉月と父の確執からかばい救おうとしてくれたのも、そうして育まれた絆の賜物であったかもしれない。肉親たるのはもちろんでありながら、それ以上の愛情の交感を覚えた。
　記憶の中、彼の穏やかな微笑みも、父を糾弾する厳しいまなざしも、全てが葉月の中に脈々と息づいている。

　姿見の前に置いた椅子へ腰かけ、スケッチブックを膝に乗せ開く。鉛筆を手に、しばし思索する。目の前のスケッチについて。祖父について。父について。
　かちこちと鳴る針の音はもはや耳に入らない。何かインスピレーションが降ってこなければ、葉月は何時間だってそのまま姿勢を崩さずにいるだろう。
　スケッチの胸像はラフにして繊細で、静かでいて踊るような筆致で描かれていた。描きかけだが、なかなかの出来だと思う。少なくともここ数年では一番だ。
　これを見せた瞬間を想像する。イメージの祖父は歯を見せて笑う。まるで自身のことのように嬉しげに、小躍りしそうな両足をおさえる代わり、めいっぱいに葉月を抱き寄せる。
　そうして彼はあの愛おしいしわがれ声で、告げるのだ。
　お誕生日おめでとう、葉月。

　何時間そうしていただろうか。
「うん」
　葉月は鉛筆を置き、代わりに色鉛筆を取り上げ、瞳に色を差し入れた。エメラルドグリーンの輝き。祖父から受け継いだまなざしの優しさ。その一点にのみ彩りを表現し、完成とした。
　あらためて俯瞰して眺めるに良い出来だが、物足りない思いもある。特に表情が冴えなかった。しかしその足りない部分こそが、来年に活かすべきところだとも言える。
　例え祖父が目にすることはないとしても。成長を止めることはできない。葉月には越えるべき壁がある。乗り越えることをこそ、祖父は望むだろう。
　ふと窓を見ると、外は夕暮れ時の黄金色だ。８月。からりとした夏の黄昏れ。
「……待っていて」
　誰ともなくつぶやく。
　秋には留学が待っている。父との軋轢も飛び越え、祖父の想いを果たすため……飛躍の時は、目前に迫っていた。

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