怪異は招く｜リアクション

怪異は招く

　青山絢は早朝の時間帯に目を覚ました。
「日曜日なのに」
　不機嫌な声のあと、額に手の甲を当てると汗で湿っていた。首も同じで快適な睡眠は期待できそうにない。
　二度寝はすっぱりと諦めた。汗で濡れた寝間着を脱いでビキニに着替える。重ね着の状態で薄青いチュニックと白の七分丈のパンツを合わせた。
　絢は部屋を出た。寝ている者を起こさないようにして玄関に移動。ひっそりとマンションを抜け出した。
　約一時間後、絢は放心した姿で寝子ヶ浜海岸の砂浜にへたり込んでいた。顎の先端から汗が滴り落ちる。強い潮風に吹かれ、揺さぶられるように身体が震えた。
「……夢ではない？」
　胸の奥に沈めたおぞましい記憶がゆっくりと浮き上がってきた。

　早朝の大気はひんやりとして絢の身体を適度に冷やしてくれた。海への気持ちは薄れ、あまり通らない道を選択した。
　緩やかなカーブに従って歩いていくと前方にトンネルが見えてきた。
「なんだろう？　何か忘れているような……」
　目に見えない不安に包まれた。カーブミラーの前でビクッと肩が上がった。包装された菓子が綺麗に揃えて置かれていた。
「幽霊スポット……」
　露出した腕を自らの手で摩る。強張る頬を笑顔に変えてトンネルの中に入っていった。
　冷気が漂っているのか。外よりも寒く、絢は両腕を交差させた姿で歩いた。
　周囲の明かりが弱々しい。足元に気を付けながら中程まできた。
「な、なに！？」
　立ち止まって首筋を撫でる。掌が濡れていた。無色で真水のようだった。
「……脅かさないでよ」
　上に向かって呟くと小さな一歩を踏み出した。
　小石を踏んだ。身体が壁の方に傾く。肩が当たる前に立て直した。
　壁に浮き出た染みから目が離せない。
　不吉な黒猫。その横には巨大な人の顔があった。表情は苦痛で歪み、大きな口を開けていた。絶叫しているようにも見えた。
「なんてね」
　やんわりと否定した。強い瞬きをして顔のような染みの前を通り過ぎる。
「え……」
　絢の姿を追い掛けるように黒目が動いた。睨み付けると染みらしく何の変化も見せなかった。
　――染みが動くはずがないわ。幽霊スポットを意識し過ぎたのよ。納得できる話よね。
　少し足を速めた。耳の感度が上がっているのか。やたらと足音が響く。
　その中に新たに加わる。小さな石を投げ捨てたような硬質な音が幾つも重なって聞こえてきた。
「気のせいよ。だってトンネルには誰もいないし！」
　臆病な自分に対して怒りを向ける。歩幅が広くなり、更に速度を上げた。
　微かな泣き声を耳にした。絢は口角を極端に上げて笑みを作る。
「トンネルに風が吹いたら泣き声に聞こえるよね！　それしかない！」
　大きな声で掻き消すように言い放つ。
「……悔しい……憎い……なんで、こんな目に……」
「声みたいに聞こえるけど、風のせいよ！　ヘンに耳がよくて困るよね！」
「ねえ」
　耳元で呼び掛ける声に反射的に顔を向けた。薄汚い壁があるだけで誰もいない。染みが動くこともなかった。
「ねえ」
　耳元で囁く声が離れない。限界に近い速度で歩いた。
「ねえ、こっちだよ」
「ないから、絶対にないから」
「あるよ！」
　耳元の大きな声に絶叫が重なる。一瞬で恐怖の限界を超えた。
　絢は全力で走る。トンネルを出たあとも速度を落とせなかった。

　突然、回想は打ち切られた。砂浜で犬の散歩をさせる老人を見掛けた。絢と目が合い、お互いに会釈を交わす。
　老人と犬の後ろ姿を目にしながら、ふと言葉が漏れた。
「あれは一体、何だったのよ……」
　口にしても疑問は残る。戻る気力が湧かず、絢は穏やかな海を眺めていた。

このページにイラストを設定する