落とし穴の先で｜リアクション

落とし穴の先で

　星幽塔の第一階層にあるサジタリオ城下町を朝陽が照らす。大通りは輸送用の幌馬車で混雑の度合いを深めた。各所で早々と荷下ろしが始まり、東側の店舗に武具が次々と運び込まれた。
　対面にある西側は静かで人通りは少ない。その中の一人、ティオレ・ユリウェイスは生欠伸を噛み殺し、更に奥へと向かう。
　――朝風呂をのんびり楽しめそうね。
　ポニーテールの先端が弾んだ。左耳に付けた個々のピアスが朝陽を受けて白い光を放つ。
　正面に目当ての公衆浴場が見えてきた。僅かに速度を上げた直後、身体が沈んだ。
　瞬きの間もなかった。ティオレの姿は路地裏から完全に消え去った。

　ティオレの表情が厳しい。周囲を高木に囲まれている。宙に浮いた状態から一気に落下に転じた。
　瞬時の判断で身体を丸める。衝撃を和らげて地面を転がり、速やかに立ち上がった。右腕に痺れが走ったのか。軽く振った。
「……ここは？」
　青い目は素早く周囲を探る。近くの木に触れた。
　――感触はある。幻覚の類いでは無さそうね。
　視線を下に向けた。見える範囲を広げていくと一方に注意が向かう。
　足早に近付く。落ち葉の状態が他と違っていた。踏み荒らされてできた獣道は奥へと伸びる。
　――この場所の手掛かりを得られるかもしれない。
　冷ややかな笑みで歩き出した。
　足場の悪さを物ともせず、足音を忍ばせて進む。目で周囲を見回し、少しの音にも反応した。
「野生動物のようね」
　一瞥して尚も先を目指す。迫り出した根を軽く跳び越えた。着地と同時に大きく息を吸い込んだ。
　――硫黄の匂い。有毒ではないし、そう遠くないわ。
　軽装を活かして突き進むと赤い池に出くわした。
「これは……」
　片膝を突いて、そっと手を入れた。僅かに掬って鼻に近づける。
　――これが硫黄の元で温泉のようね。あの朽ち掛けた看板は？
　立ち上がると傾いだ木製の看板に目を向ける。表面は摩耗して断片的な文字を読み取る。
「ここが霊界」
　時間帯によるのか。温泉には誰も浸かっていない。周辺に人影も見えなかった。
　――場所は違うけど、朝風呂を楽しむことができる。誰もいないからのんびり入っていられるわ。
　その判断からの行動は早かった。躊躇いなく衣服を脱ぎ、赤い湯に肩まで浸かった。
　手足を前に伸ばし、良い気持ちー、と力の抜けたような声を漏らす。両手で掬った赤い湯で顔を洗った。
「悪くないわ」
　縁を背にした。僅かな時間で頭が揺れ始める。半眼となって耐えたものの睡魔には勝てなかった。
　後頭部を縁に預けて深い眠りに落ちた。
　――夢を見ている？　とても熱いわ。喉の調子がおかしくて、全身に力が溢れて。
　思いっきり叫びたい。どうして、そんな気分に？　わからないけれど、全てを解放したいわ。
　ティオレは実行した。それは獣の咆哮だった。
　立ち上がると獣に変貌した。牙を剥き出しにして尚も吼える。銀色の毛に覆われた逞しい両腕。指は太く、鋭い鉤爪が妖しく光る。荒々しく振っては湯面を切り刻んだ。
　野生の本能が目覚めたのか。抑えられない破壊衝動を持て余して走り出す。
　何度も吼えて高々と跳躍する。巨大な身体は着地と同時に大波を立てた。収まると辺りは静けさを取り戻した。

「……ここは星幽塔？」
　見慣れた公衆浴場にティオレはいた。浴槽に背を預けた姿で白く煙る天井を眺めていた。頭を起こす。目に付いた湯の色は赤くなかった。
　――でも、霊界は夢ではないわ。
　湯面に浮いていた長い毛を摘まむ。磨かれた鋼線のような銀色でフェンリルの毛を思わせた。

このページにイラストを設定する