たとえばあなたが、｜リアクション

たとえばあなたが、

【いる】

　荒い息遣いがやけに耳につく。一体誰がこんなにも呼吸を荒げているのか。それが自身の喉を通り抜ける空気の音だと、椎井莉鳥は気づかない。
　いる。
　いるのだ。後ろに。
　熱い湯を浴びる。部活終わりに自宅のバスルームで、四肢へ浸透した疲れを汗とともに洗い落とす。浴槽に湯を張り、肩まで浸かって全てを弛緩させる至福。
　そのはずなのに、いるのだ。シャワーを浴びる莉鳥の背後に、いる。確かに。ちゃぷ、と浴槽から水音さえ立った。
　蛇口をひねり湯温を上げる。なぜだか寒くてたまらない。こんなにも熱い飛沫が打つ肌は粟立ち、芯から冷えるようだ。震える。足元から凍り付いてしまいそうだ。動悸はもう痛いほどに早い。
　いる。自分ではない何かが湯に潜んでいる。あるいは誰かが。いったい誰が？　あるいは、何が？
　それはおそらく、こちらを見ているだろう。じっと一点を、莉鳥の背を微動だにせず見つめているだろう。決して運動の疲労を癒すべくそうしているのではなく、何らかの意思あって莉鳥を見据えているだろう。
　それが立てる水音が耳障りだ。シャワーの音はもはやまるで聞こえないというのに。莉鳥の呼吸はますます荒く、激しく肩を上下させた。水滴が肌を伝う感覚すら鋭敏になり、感じる視線は痛いほど背を刺した。
　確かにいる。
　だが本当に、いるのだろうか？　髪も全身もくまなく、いつもに倍して洗い終えたところで、莉鳥の胸に疑問が湧いた。
　この目で見たわけでもない。いる、だろうか？　妄想ではないだろうか。水音は天井へ跳ねた水滴が湯船へ飛び込んだがためかもしれない。そう。きっとそうだ。
　背後で派手な水音が鳴った。まるで誰かが浴槽から立ち上がったような音だった。
　それは濡れた床に足をつけ、気の遠くなるような長い時間をかけ、一歩、二歩と歩を進める。民家の狭いバスルームだ、それだけで莉鳥の背後に到達しただろう。
　現にこの、剥き出しの無防備なうなじへかかる生暖かい感触。まるで、誰かの……吐息のよう。
　そんなわけもない。疲れた身体が不意に錯覚させただけ。ただの妄想に過ぎない。生暖かい感触がうなじに。はあ、はあと。肌がざわめく。心を握りつぶされるような圧迫を胸に覚える。
　誰かが。後ろに。
　蛇口をひねり湯を止め、莉鳥はやけっぱちな心持ちで勢いよく振り向いた。
　莉鳥はバスルームの全てを明瞭に見通し、天井から落ちた水滴が湯船で跳ねる音に、ほうと深く息を吐いた。

　不意に震動を始めたスマートフォンにびくりとして落っことしかけたが、何のことはなく友人からの電話だった。
『今日もハードな練習だったねえ。疲れた～』
「そうね」
『最近記録伸び悩んでてさ。莉鳥は調子いいみたいじゃん？　なんかコツとかない？』
「コツね。助走と踏切のタイミングが少しズレてるように見えたかも。もう少しリズムを意識して……」
　他愛もない話は弾み、あまり愛想のよくない莉鳥の部屋にも笑みが満ちた。
『なるほどね、ありがと。試してみる！　ところで、いいの？』
「何が？」
『シャワー。出しっぱなしじゃない？　じゃーって音、さっきからずっと聞こえてるけど』
　その瞬間、再び肌は押し寄せる波のように粟立ち、心臓は早鐘を打ち始めた。
『出しっぱなしで忘れてたんじゃない、止めてきたら？』
　いる。
　やはりいるのだ。しばし硬直した。
　いる。
　重たくのしかかる圧迫を感じながら、前進を拒む足を引きずりバスルームへ向かう。
　閉じた扉のすりガラスの向こうに明かりは点いておらず。音だけが。ざああ、ざああと。
『莉鳥？』
　震える。手が。取っ手をかろうじて握り、開く。ちょうつがいの軋み。
　暗いバスルームを照らすには廊下から差しこむ明かりはじゅうぶんではなく、薄暗い中でフタを開けっ放しの浴槽からこちらを覗く瞳が、かすかな光を照り返して。
　目が、合った。
『ちょっ、大丈夫！？　すごい音鳴ったけど、耳がキーンてしちゃった。莉鳥？　あれ？　ははあ、スマホ落っことしたかな。もしもし？　おーい……』
　水音はもう、聞こえない。

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