催花雨。濡れそぼつ。｜リアクション

催花雨。濡れそぼつ。

【雨に決意を】

　欄干にて雨粒が浮かれてステップを踏むのを見た。
　対比して愛猫萌々子の気持ちは落ち込んでゆくが、それはしとど降る雨のせいばかりとも言えない。
　言葉にせねば、と焦燥する。避けては通れまいと痛いほど理解していた。これまでにずっと。
　ややあって萌々子は口を開いた。
「いつも、話題にするのは避けていましたけど……」
　雨粒のダンスに負けじといささかに声を張ったつもりだが、その試みがどこまで上手くいったかは分からない。ただ、
「いつまでお父様から逃げるんですか。お兄様」
　電話口の向こう、息をのむ気配だけは確かに伝わった。

　ステップを踏んだのは自分であったかもしれない。耳にも目にも未だ焼き付いていたから。
　遠い外国の空の下、愛猫公英が響かせた音は新年の到来を告げる冷たく澄んだ空気を吹き飛ばすほど、真夏の太陽めいて人々を魅了したはずだ。画面越しに見つめた萌々子がそうであったのだから、現地の人々が胸に受けた衝撃はいかばかりかと思う。
　だというのに、想起される感情はまぶたの裏に浮かぶ映像の壮麗な様とは裏腹に過ぎた。
『……萌々子』
「確かに、そう。お父様の強引なやり口を、私もまだ許すことはできません」
　けれど、と続ける。
　欄干にいくつも生まれては弾けて消える王冠を、虚ろに眺める。桜花寮の温かみある佇まいがいつになく怜悧に思え、春らしからぬ冷気に萌々子は肩を震わせた。
「分かったんです。その後も私は、手紙や電話でやりとりしていましたから。お父様が……お父様も、悩んでいたことを」
　曇天は深い藍色をはらみ、さながら幾重にも閉じた緞帳だ。重たくうっとおしく、一枚一枚を開いてゆくのは難儀するだろう。
　しかし雨濡れたそれらは不覚にも、萌々子の目をいくらか楽しませた。雲の隙間に時折覗く陽光を反射して、プリズムに彩られていた。美しいと思った。
『萌々子、俺は……』
「お父様は私やお兄様が出ていったことに、苦悩していました。自分は間違っていたのではないかと。道を違えてしまったのではないかと」
　大様にして緞帳は厚く豪奢で、開くにはその端緒を見つけねばなるまい。とっかかりを掴まねば、秘された想いを覗くことはかなわない。
　萌々子は見つけた。ならば、兄は？
　そう思った途端、重く閉じた口から言葉が滑り出た。
「いつまで……逃げているんですか？　お兄様。過去を忘れろなんて言いません、難しいことは私だって分かっています。でもだからって、向き合わなかったら……立ち向かわなければ、何も変わらない！　進まないでしょう！？　お兄様……！」
　彼が二の句を継げないままに、萌々子は反射的に電話を切ってしまった。

　相も変わらず雨音は軽妙だ。陽気に唄う鳥のさえずりにも似ていた。こんなにも雫は忙しないというのに、そんな思考が萌々子の脳裏を巡っては消えていった。
　雨はそんなふうにして、人を迷わせる。
　大きくため息をついた。
「偉そうに……私」
　兄と自分に共通する命題を萌々子がいかに乗り越えるに至ったかといえば、神魂の影響があった。意図せぬまま父へと送った手紙はしかし、閉じられた道をこじ開ける力となった。
　だというのに、公英へはえらく上から物を言ってしまった気がする。
　すぐにかけ直して謝罪の一つも述べたかったが、自分の浅慮を悔いる見栄っ張りが邪魔をしてはばかられた。
「どうしよう……」
　謝罪は萌々子の胸の中でばかり空回った。

　しかし、妹の思いを微塵も察せぬ兄ではなかった。例え神魂の奇跡など知らなくともだ。
「萌々子……もっと大きなステージで歌うところを見せるって、俺、言ったもんな」
　遠く離れていても、空はどこまでも同じ。繋がっている。
　公英はしばし空を眺めた。雲は厚く、髪は冷たく濡れそぼったが、降りしきる雨が彼には不覚にも、美しく思えた。

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