四月の蒼青（あお）い空の半分欠けた月を見て彼女は笑ってる。｜リアクション

四月の蒼青（あお）い空の半分欠けた月を見て彼女は笑ってる。

　キャットロードの裏手、理緒が暮らす部屋の所在地だ。
　ドアを開けると、まず解放感のある構造に目を奪われる。
　引っ越し当初は未開封の段ボールで埋められていたためなにがなんだか分からなかったが、すっきり片付いた現在では、おしゃれなメゾネットタイプの部屋だとわかる。一部屋のマンションながら、入れば二階建ての構造なのだ。
　壁は白、螺旋階段はブラウンで床はフローリング、妙な虚飾がないのも気持ちがいい。

「お邪魔します……」
　ひと声かけて紗月は靴を脱いだ。
「そんな他人行儀やめてよー、何度も来てるじゃない」
「それはそうだけど……入ってこう、ぱっと視界がひらくと戸惑っちゃって……」
「ひらくも何も、単にこういう構造ってだけで、床面積はそう広いわけじゃないよ」
「でも、なんだかあの階段から執事が降りてくるような……イメージが……」
「執事？　執事どころか羊だって飼えやしないから」
「理緒ちゃんて……面白い……」
「澄んだ瞳で言わないで、紗月。あたしがアホだと言われてる気がするから……まあアホだけど」
「そんなこと言ってないよ。結構いい物件だよね、って言いたいだけ」
「うん。まあね。二階建ては気に入ってる」
「お手頃価格と聞いたけど……」
　はっと紗月は口元をおさえた。
「好条件の割に格安……！」
　不安ですとまではっきり言わないが、すべてを表現する眼差しを理緒に向けた。
「……まさか事故物件？」
「じじじ、ジコブッケン！？　それ何語！？　アイ・キャント・アンダスターンド！？」
「日本語……。念のため言うと、なんらかの原因で前に住んでいた人が亡くなった家屋をそう呼ぶ……」
「ちょっとやめてよ。事故？　ジコジコ？　やめてけれゲバゲバだよもうー」
　乾いた笑い声を理緒は立てるものの、紗月は気がついていた。
　理緒ちゃん、目を泳がせて挙動不審……。
　まさかのまさかかもしれない。だとしても、穢（けが）れだとか祟りだとか、そういう超自然的で不条理なものに身を任せることは紗月の好みではないのも事実だ。人類の開闢（かいびゃく）以来幾百万年、事故物件どうこういうのであれば地上すべてが事故物件ではないか。不毛な話題はやめよう。
「ところでここ、とてもいい場所にあるよね……徒歩圏内にいいお店がいっぱいあるし、あのサンドイッチ専門店とか……」
「そうなんだよ。夕方くらいになるとキャバ嬢さんかな？　きれいなお姉さんがたくさん歩いてるしー」
　ほっとしたような口調で理緒が応じた。
　フローリングの床に腰を下ろしたまま、コンビニで購入したペットボトルを前にして紗月と理緒は話に花を咲かせた。
　学校のつづきみたいな話題や、グラドルとしての理緒の話、三つ子の母親という片庭の子育て奮戦記や寝子高の思い出、とりとめもないけれど無秩序な言葉のやりとりが楽しく、時間軸も空間も行ったり来たりしながら幼児のそぞろ歩きみたいに、とりとめもない話をしたところで、
「……っていうことだったんだよ」
「だったんだ。それわかるな－」
　とひとめぐりして話題が尽きた。
　話題を続けるべしと十戒の石版に書いてあるわけではない。
　適度にしゃべり疲れたところで訪れる当然の間ではあっただろう。
　でも沈黙が訪れた。事実だ。
　居心地が悪いものではなかった。親しくもない間柄に流れるような『間』ではなかったから。むしろその正反対で、親しいから、互いのことをよく分かっているから、だからこその空白だった。
　理緒は大きく息を吸った。
　吸う必要があると思ったから。
　吸わなければ話せないと思ったから。
　上唇を舐めた。
　砂糖やミルクを入れない紅茶のような味がした。
　いつの間にか窓の外は、ペールブルーの夕闇につつまれている。