【お花見】逢ひ見んことは命なりけり｜リアクション

【お花見】逢ひ見んことは命なりけり

　夕陽が染めあげた空は、オレンジティーのような茜色だ。ステージにはスポットライトが当たっている。

　スケーターのように流麗に、ヴァイオリンの音が流れ出す。
　ピアノがその隣を伴走すると、混じり合ったふたつの音は一本の音楽を紡ぎ出すのだ。
　ヴァイオリンソナタ第五番『春』第一楽章。
　ベートヴェン作曲、ヴァイオリンとピアノのデュオによる音楽である。
　上品なだけではなくどこかポップでチャーミングな音色。浸透圧の差が水のブドウ糖液への移動をうながすように、すうっと聴衆の体にしみこんでいく。
　真瞭と佳蓮にとっては十八番、夢うつつであっても弾きこなせるくらい熟練している曲だった。
　だけどそれだけに心を込めれば、込めるほどに音色はつやを増す。
　夕陽を望む絶好のタイミング、これだけつめかけた観客席のどこかに理紗子がいるとあっては、真瞭の演奏にも熱が入ろうというものだ。絶妙に会わせて佳蓮の音も高まっていった。
　その結果音楽は、中心核に輝く力強さを保ったまま、くっきりとエッジの立った輪郭をもって拡がっていった。
　声援や手拍子、ときにモッシュやダンスがはじまるこれまでのステージとは違った。誰もが魂をわしづかみされたように、ただただ、真瞭と佳蓮の音楽に酔いしれた。
　聴衆のなかに理紗子もいる。
　当初、理紗子が感じたのは戸惑いだった。登壇したふたりを見て気づいたのである。
　まーちゃんだけじゃない。
　ステージにあの人もいる。ピアノの前に座った。
　昨年の桜の日に、まーちゃんと一緒にいた人。
　ピアニストだったんだ。
　そうか、まーちゃんがヴァイオリンであの人がピアノでデュオ――想像してなかった。
　しかし居心地悪いものを胸に抱いたのは最初だけだ。
　すぐに理紗子の心は、音楽にとらわれてしまったから。
　音楽が終わったそのとき、理紗子も他の聴衆と同様にすっかり魅了され、我を忘れて強く拍手を送っていた。
　すごい。まーちゃん、本当に、すごい。
　どんどん良くなっているような気がする。成長しているんだ。音楽家として。
　舞台上、お辞儀して真瞭はスタッフになにか耳打ちした。客席を指さしている。
　客席から舞台がよく見える以上に、ステージからは客席が見えている。
　真瞭は見つけたのだ。
　理紗子を。

「よろしいですか」
　急に声をかけられ理紗子は我に返った。
「え？　はい」
　運営スタッフの腕章を巻いた若い女声だ。理紗子に微笑して告げた。
「深倉理紗子さんですね」
「あ、はい……」
　こちらへ、と手を取るようにしてスタッフは理紗子を導く。
　言われるまま従うと、
「えっ！？」
　そこはステージの上ではないか。
　夢かと思ったがさにあらず、理紗子は告げて足元のケースを開けた。
「ようこそ、りさちん」
　そして手渡す。もちろんフルートを。
　真瞭はステージに向き直るとマイクのスイッチを入れた。
「お待たせしました。つぎは私の大切な友達、中学校時代からつづく一番の親友にも演奏に参加してもらおうと思います」
『え？　……ちょちょっと、まーちゃん冗談よしてよ！』
　理紗子は言いたかった。
『プロ二人と一緒に素人のフルートって、冗談だよね？』
　と。声を大にして。
　でもステージ上で聴衆の視線が集まっているのだ。理紗子の心の声が表に出ることはない。
　オリジナル曲です、と前置きして真瞭が言う。
「私たちにとってかけがえのない、とても大切な曲『Je t'adore.』――フランス語で『大好き』という意味です。お聴きください」
　これが真瞭の悪戯、大きな大きなサプライズだ。
　理紗子の返事も待たず、ヴァイオリンの弓を走らせる。ヴァイオリンの弦が震える。ボディを通して絹のような音を鳴らす。
　りさちん、慌てふためいてるね。
　すました顔で弾きたかったのだけど、どうしても真瞭は笑顔になってしまう。
　その通り。急すぎる展開に理紗子の頬は真っ赤だ。
　でもこの曲は理紗子にとっては肉体の一部のようなもの、震える手でフルートを持ち上げリッププレートに唇をつけると、頭ではなく体が記憶に直結した。
　音楽が流れ始めた。それはヴァイオリンとフルートの幸せな結婚だった。
　リードするのはヴァイオリン、フルートは懸命についていくだけだったがやがて翼が生え飛翔して、今度はヴァイオリンを天へと引き上げようとする。
　いいじゃない、と小声でつぶやくと、佳蓮は即興で鍵盤を叩いた。基本のコードは比較的単純だ。これに味付けをしてヴァイオリンとフルートを、もっともっと高めるのが自分の役割、そう理解して音の流れに絡んでいく。
　もう、せめて練習くらいさせてほしかった。
　理紗子は真瞭に目で訴える。
　大丈夫、この曲なら安心だと思ってたから。
　目で真瞭は理紗子にこたえた。
　だって、私たちの曲なんだから――。

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