【お花見】逢ひ見んことは命なりけり｜リアクション

【お花見】逢ひ見んことは命なりけり

　海浜公園の野外ステージ、出演者控え室。
　空いたままのドアから半歩入り、そこで足を止めて由良佳蓮（ゆら・かれん）は内側からノックした。
「そろそろよ」
　出番、と告げる。
「行ける？」
「大丈夫」
　もう一度鏡に向かい前髪をチェックすると、深林真瞭は立ち上がった。
　ステージ衣装は目の覚めるような青いドレス、真瞭にとって青は大切なパーソナルカラーだ。他の色のドレスもあるが、ここぞという大切な場では青をまとう。
　佳蓮は一重まぶたの目で真瞭を上から下まで眺めると、扉にもたれて腕組みした。
「うん、きれいきれい。真瞭は本当美人さんだよね」
　よしてよ、と照れたように笑って、それでも、
「ありがとう」
　と真瞭は返す。
　昨日会ったばかりのようだが、実のところ佳蓮が真瞭と会うのは数日ぶりだ。リハーサルを兼ねた音合わせを海浜公園のステージで行ったあと、急いで彼女は地元にとんぼ返りしたからである。
「宗谷（そうや）くんは元気？」
「元気も元気、同じ月齢の子の平均体重の倍くらいあるから」
　宗谷というのは佳蓮の息子の名前だ。
　佳蓮は真瞭の芸大時代の友人、担当楽器はピアノだ。
　いわゆる天才肌の人間で、いつも行動は突拍子もない。理由も告げず大学を中退し、少し前までは地元の小さな楽団に参加して散発的な活動でピアノを弾いていたという。ところがどういう奇縁か佳蓮はその後音楽プロデューサーから声がかかり、レコーディング中心のピアニストとしても活動するようになっていた。世間的な知名度は決して高くないものの、テレビドラマのサントラなどで彼女の演奏を聴くことができる。
　流転の人生といえるが、そういう意味なら真瞭も負けてはいない。
　所属楽団で活躍していたものの音楽には無関係の政治的な争いに疲れ、思い立って昨年辞職すると、しばらくソリストとして活動することにしたのだから。
　安定した客船から嵐の海に飛び込み、ちっぽけなボートに移ったようなものだ。
　今年の正月明けから真瞭はソリストとしての活動を本格化させた。内部は腐っていたとはいえ名のある楽団に保護されていた時代とはちがう。個人事業主としての厳しさはいやというほど味わった。なにせ営業からマネジメント、ギャラ交渉まで全部自分でやらなければならないのだ。しかしその一方、かつてなかった自由な活動を満喫していることも事実だ。
　呼ばれればどこにでも出て行く。活動は国内にとどまらなかった。幸い仕事は途切れなかったものの、忙しさは目の回るよう勢いだった。
　ソリストとなってからは、佳蓮とは事情が許す限り共演するようにもなった。小さな公演はもちろん、レコーディングの仕事も。ちなみに、その過程で佳蓮がシングルマザーであることをはじめて知った。
　今日も佳蓮は子どもを預けてここに来ている。自分ひとりでも大変なのに、息子の養育までしている彼女は本当にすごいと真瞭は思う。しかもその大変さを、佳蓮はほとんど表に出さない。
　私も負けていられないな。
　佳蓮との活動は、音楽を除いても刺激になると真瞭は思う。
「じゃあ行こっか」
　歩き出した佳蓮は、真瞭が手にしたものに目をとめた。
　ヴァイオリンケースはわかる、だが真瞭の荷物はもうひとつあったのだ。
「そのフルートのケース、一体なに？」
　内緒、と真瞭は茶目っ気のある口調で告げた。
「なにそれ？」
　と佳蓮は言ったもののそれだけで、特に気にする様子もなく歩き出した。
　止める気はないようだ。なんとなく、面白そうだと思ったのかもしれない。
　真瞭が目論んでいるもの、それはちょっとした悪戯だ。
　今日、りさちんがライブを見に来るから――　
　事前でSNSで確認したのだ。真瞭の唇には微笑があった。