【お花見】逢ひ見んことは命なりけり｜リアクション

【お花見】逢ひ見んことは命なりけり

　本日臨時閉店、そう貼り紙をして閂（かんぬき）をかける。
　思い切って今日、古書喫茶『思ひ出』は閉めてしまった。
　だってそうだろう。
　こんなにいい天気なのに。桜も満開なのに。
　せっかくのお花見日和だってのに、仕事とかしてる場合か？
と、いうわけでお店閉めて花見にきちゃった～♪
　着流しに一枚羽織って懐手、かくして柏村文也はぶらぶら、花を求め風流を求め桜川沿いを独歩する。

　いやぁ、絶景かな絶景かな。
　面白いことに桜は見る角度によって、あるいは位置によって表情を変える。
　ただ華やかなだけじゃないんだよねえ。
　日陰にひっそり立っているとなにやら恐ろしいし、無秩序に咲き乱れているのを一望すると、この世の存在ではないものを目の当たりにしたような物狂おしい気持ちにもなる。散りぎわは老境の雰囲気で、いくら完全無欠に咲いていたとしても、こちらの気分次第によっては、むなしく見えるときもあるものだ。
　綺麗なだけが桜じゃない、ぞっとさせてくれたり哀しませてくれたっていい。
　逆に言えば人間の、勝手な想いを飲み込むだけの度量が桜にはあるとも思える。
　さて、さて、面白いものだね。
　かといって文也も俗人たるところがある。
　俗人は腹が減る。生物としての宿命か。
　どこからともなくいい匂いがしてきたのだ。肉が焼ける匂い。野菜が著と焦げる匂い。それとこの甘い匂いは……そうか、焼肉のたれとかバーベキューソースのそれであろうか。
　いささか腹の虫が反応した。
　この匂いはどこから来るのか。
　ひょうひょうと文也は向かう。
　

　なぜ川？
　海じゃなくて？
　楡宮遠海の耳は潮騒ではなくせせらぎを聞き、肌にあたるのも潮風ではない。
　またやってしまった。
　方向音痴、それが遠海の背負った宿命だ。
　なぜ方向音痴の人間は道をまちがえるのか。進むべき方角を誤り、向かってはならない方向へ歩みを進めてしまうのか。
　迷ったと思ったら冷静になれ、そう心ある人はいうかもしれないが無理難題というものだ。
　すでに本来の目的地とはちがう方向に迷った時点で、冷静さなど雲散霧消している。
　ゆえに動揺し、正しい方向へ向かおうと焦るあまりさらにとんでもない方向へと迷い込むことになる。
　多少前置きが長くなった。
　この日遠海がたどりついた場所は、本来の目的地である寝子ヶ浜海浜公園ではなく桜川だったのである。
　遠海はライブパフォーマンスに参加するはずだった。
　いまごろはステージの上で歓声を浴びているはずだった。

　しかし実際は、ひとり川原に立ちつくしている。
　遠海の肩にはショルダーキーボード入りのソフトケースがかけられている。服装はパーカーと黒っぽいカーゴパンツ、パーカーの下はターコイズブルーのＴシャツだ。
　普段の『鎌倉の名家のお嬢様』然とした容姿からは想像できないが、遠海は軽音部のキーボーディストとして名を馳せている。実際、奏者としては母親譲りの才能に恵まれてもいた。
　音楽的才能と引き換えに方向音痴になったのか？
　それとも方向音痴こそが、遠海の才能の源泉なのか？
　原因の追及はともかく、ステージはあきらめるほかないだろう。
　……まあいいか。桜川のあたりを見て帰ろう。
　思い悩んでいても仕方がないから。