【お花見】逢ひ見んことは命なりけり｜リアクション

【お花見】逢ひ見んことは命なりけり

　腕時計を二度見してしまった。
　もうこんな時間か。
　すっかり遅くなっちゃったなぁ、本当に。
　食事すら忘れていたのでお腹はペコペコだ。脳はエネルギーをたくさん必要とするというが、これはまちがいないなと実感した。
　図書館の窓から眺めた外は、もう日が翳（かげ）り始めている。
　天気は上々だが本日、特段の予定もなかったので呉井陽太は昼前から図書館を訪れていた。静謐な空間、本の匂いに包まれながら、予約していた書籍を受け取り一心に読みふけるというのは最高の贅沢だと思う。
　贅沢ついでに散歩しつつ帰ろうか。
　陽太は、寝子島街道に足を向けた。
　いいタイミングで来たかもしれない。街道の桜並木は満開で、けれども夕方ちかいためかまるっきり人の姿はなく、べっ甲色の空、同じ色に染まりゆく桜吹雪、その両者を陽太はひとり占めできたのだから。
　今日はラッキーデーだね。
　予約していた本だけではなく、表紙しか覚えておらず作者名もタイトルもおぼろげだった小説も、面出しの状態で見つけたおかげで借りることができた。
　桜。
　眺めているとふと、ある女性の姿が思い起こされた。
　ややもすると散り消えてしまいそうにはかなげで、美しくて――。
　でもおなじ肉体のなかに、ゆるがぬ堅牢さと怜悧さを兼ね備えた人格も持つ彼女。
　ロシア系で蜂蜜みたいな金髪なのに、頬がほんのり桜色だからだろうか、なんだか桜のイメージと重なる。
　ナターシャさん。
　じき四月になるけど、今ごろどうしているだろう。
　恋愛感情というのとは違う。でも、行方が気になる。
　噴水広場で話して以来なかなか会えなかったし。
　もし寝子島を離れていたらどうしよう。
　はー……連絡先を聞いておけばよかった。
　陽太の爪先が小石に当たった。蹴ったつもりはないけれど、石は気持ち良く転がっていき、桜の幹に当たって止まった。
　でも、と思う。
　彼女に会えたとしても、オレに何ができるだろう。
　どう生きたらいいのかわからず、気弱にしているナターシャさんと、
　黒い覆面の下から、アイスピックのような視線を向けてくるナターシャさん。
　二人のナターシャさんの、どっちにも消えてほしくないと、オレはそう願っているのだけど、いったいどうしたら……。
　逢魔が時という言葉がある。
　英語ではdusk、これはもう少し、昼と夜の境目という意味に近いが、いずれにせよ、不思議なものや魔的な存在に出逢いやすいというニュアンスは通底していた。
　だから驚くべきことではないのかもしれない。
　もちろん陽太は驚いたけれど。
　桜並木の中央に、たった一人で、陽太を待つようにして、
　ナターシャ・カンディンスキーが立っていた。