【綾花の花びら】


　遅く起きた朝。綾辻 綾花のニガテなこと。
「はあ。はあ。はあ。ふう。はあ」
　たったかたっと軽快に、綾花は林道を駆け抜けます。身だしなみをきっちり整えて出てきたというのに、髪がぼわぼわになってしまわないか心配です。汗の匂いもちょっと。
　猫鳴館の薄っぺらい壁が使命を果たさず、寒風吹き荒ぶお部屋の冷たさに耐えるばかりの冬はようやくにして、終わりを告げました。いかに猫鳴館といえど、春ともなれば陽気でぬっくぬく！　ぽっかぽか！
　飼い猫のクロワといっしょにもっふりもふもふ、お布団に気持ちよくくるまっていたら、うっかり寝坊してしまったのでした。綾花にしては珍しく、不覚でありました。
「は。は。ふ。は。ひ。はあ。ふう」
　そんなわけで学校へ続く道をたったかたったと走っているわけですけれど、自他ともに認める綾花の苦手分野といえばそう、運動です。朝の木漏れ日の下を颯爽駆けるのは実に気持ちがいいものの、それももって１００メートル。あっという間に体力は尽きてひい、はあ、ふうと息も絶え絶えなのでした。
　それでもなんとか足を進める綾花を、同じく猫鳴館住まいの仲間たちが追い抜いていきます。中には綾花に声をかけて、はっぱをかけてくれる子もいました。
「ふう。ふう……あ、あとすこしっ」
　キリキリいう脇腹にも耐えて、たかたかたった。どうにかこうにか、ゴールイン！



　綾花の、得意なこと。家庭科室にて。
「うわ～、綾辻さんすごーい！」
「プロじゃん、プロの手つきじゃん！」
「そ、そんなことないですよ。ふふ……♪」
　包丁すたたたたん。ボウルでまぜまぜ、ちゃかちゃかちゃちゃっ。
　小さい頃からお手伝いで培ってきたお料理の腕を振るうのは楽しくて、ついつい気合が入ります。調理実習の時間ともなれば、クラスメートたちもこぞって綾花の手さばきを覗き込んでは感心してくれるもので、ちょっとばかり、ふふふんってなものです。
「鮭のムニエルは、皮目からじっくり焼いていくのがコツなのよ～。あら綾辻さん、すごいわあ！　バッチリね♪」
　と白沢 絢子先生も絶賛してくれるように、綾花のお料理テクはかなりのもの。
　けれど、実は……誰にも教えていない、綾花だけのとっておきのコツがあるのです。
（愛情もたっぷり込めて、と。お昼休みに、珪先生に持っていってあげようっと）
　好きなヒトに作るからこそ、美味しく食べてほしいからこそ、お味のほうもグンとマシマシなわけですね！
　てきぱきと課題の献立をこなすと、授業中の試食分のほかに、差し入れ用をタッパーに取り分けます。彼の頬が緩む瞬間を想像して、綾花はにっこり♪
「ねーねー綾辻さん、それ誰に持ってくの？　家族？　友だち？」
「えっ？」
「そ・れ・と・もぉ～？」
「そりゃーあれっしょ。カレシっしょ？」
「えやややや、ちっ違います！　違いますってば……！」
「あはは、真っ赤だ。綾辻さん可愛い～♪」
　恋話も花咲く、調理実習の一幕でした。



　綾花の、スキ。
　昼休みの図書室を尋ねると、カウンターの向こうで文庫本を開いていた図書委員の顔見知りが顔を上げて、会釈を返しました。
「お疲れさまです」
「あ、お疲れさま。早川先生？　準備室にいるよ」
　なんとなーく、こう……気を利かせてくれたのでしょうか。暗黙の了解と言いましょうか。メガネをくいっとやってほんのり微笑んだくらいで、綾花が手に提げた包みには特に触れられませんでした。ありがたいやら、気恥ずかしいやら。
　今日は当番ではありませんけれど、図書委員のサガか、ちらと図書室の中へ視線を巡らせます。勉強に没頭する生徒が数人、窓際の日なたで本を開いたままうつらうつらしている人がひとり。こそこそくすくすと、小声でなにやらやりとりしている時間つぶしのひやかしが数人。いつものお昼休みの光景です。
　綾花は本が好きで、図書室も大好きです。読書で未知の知識や新鮮な物語に触れる歓びはなににも代えがたいし、そんな書物が一堂に会するこの空間は居心地よく、綾花にとって安心できる場所なのでしょう。
　もっとも理由は、それだけではありませんけれど。
「あの……珪先生？」
「あれ、綾辻さん？　今日はお昼の担当じゃないよね。どうしたの？」
　早川 珪先生は忙しくペンを動かして、なにやら事務仕事を片付けているところです。机に乗ったお弁当箱を見るに、まだ昼食は済ませてないモヨウ。やったね！
「調理実習で作ったお料理が余っちゃって。珪先生に食べてもらえたらと思って」
「いいのかい？　いつもありがとう、嬉しいな」
「はい♪　今日は鮭のムニエルなんですよ」
「お。これは美味しそうだ！　さすが綾辻さん、料理上手だね」
　大好きな人がいるところ。彼が自分の手作りを頬張ってくれる、この瞬間。
　古書がかもすあの独特の匂い。静謐なまでの静寂。
　どれもが愛おしい、綾花のとっておき。宝物です。



　最後に、綾花の趣味についても。
「わ。かわいい……！」
　放課後、ちょっと寄り道。キャットロードのニャレッジヴァンガードへ。新入荷の小物コーナーで見つけた『ねころびどうぶつ』ヘアピンに、綾花の目はクギヅケです。
　まるまる太って、ころんっと転がった猫はもちろん、犬も、ウサギも、リスも子ブタも、クマにパンダも、なんてかわいらしい！　中にはアルパカやカピバラ、カワウソ、クオッカワラビーといった近年でも人気の動物たちもいて、そんなのがころりんころころしているものだから、もう癒し効果バツグンです。
　普段使いには少し子どもっぽいかな？　とも思いつつ、ヘアピン集めが趣味の綾花。
「ひととおり、買っちゃおうかな……！」
　値札を確かめれば思ったよりもお安かったもので、一気にお買い上げ！
「♪」
　足取り弾ませ、綾花は帰路をたどります。
　素敵なことも、ちょっとだけ苦手なことも、全部が綾花の人生を飾る花のひとひら。どれをとっても欠かすことはできません。
「あ。帰りにお菓子でも買っていこうかな。それから、クロワにお土産も」
　ほら、今日も新しい花びらが、ひとつ。ふたつ。たくさん！