雪空に憂う｜リアクション

雪空に憂う

【何気ないこのひと時が】

　十メートルの先も見通せないこの荒模様。寝子島高校南校舎の玄関先にて、鴻上彰尋は深く息を吐いた。
　先ほどまで、放送室で下校の挨拶を流していた。当番も終わりいざ帰ろうかと思いきや、この雪だ。いささか辟易してしまうのも無理はない。
「ふう……」
　再びのため息。
　気もそぞろに灰色の空を眺める。今夜は月も見えないだろう。雲は分厚く、星空を見通すことはできないだろう。
（あそこのスーパー、今日はお肉がセールだったっけ。帰りに寄って行こうか。野菜はいつもの八百屋で買えばいいし、卵は……）
　ぼんやりと夕食の献立を考えるさなかにも、まぶたの裏にちらついた。七夜あおいの困惑まじりなはにかみが。
　あの夜の記憶は鮮明だ、良きにしろ悪しきにしろ。
　決して望みが断たれたわけではないが、彼女は現状維持を望んだ。
　それはいい。待つことの苦悩もないではないものの、しかしそれは前向きな悩みと言える。
　目下、彰尋を惑わせていることは、
「……あっ」
「あ。彰尋くん！」
「あおいさん。今……帰り？」
「えっと、うん。彰尋くんは？　雨宿りならぬ雪宿り、って感じ？」
「そう。そんな感じかな……」
「そっか……うん」
　なんとなく、気まずい。

　伝えた言葉に後悔は無かった。時間が欲しいというならば待つ所存である。
　しかしながらこの面と向かっての気まずさには、いかんともしがたいものがある。
「今日は少し、遅いんだね」
「え？　ああ、うん。家庭科同好会で、お菓子を作ってたから」
「そうなんだ」
「ん……そう。けっこう、ね。おいしくできたと思ったんだけど……」
「ああ、うん。そうか……」
「ん」
　無論、居心地が悪いわけではない。なにしろ彼女が隣にいるのだから、頬は火照るし胸は弾んだ。
　ただ、距離感を計りかねていた。進むにも退くにも根拠に乏しく、まるで同極の微弱な磁石を挟んでいるかのように付かず離れず。
　どこか照れくさそうな微笑みからは、忌避感は感じられない。きっと向こうも彰尋と胸中は似たようなものだろう。ただただ、どんな顔をして向かい合えばいいのか分からなくなっているのだ。
「それで……ね。クッキーが焦げちゃって。残念な出来で……」
「……ぷ」
「え、ど、どうしたの？　なにかおかしかった？」
　そう考えたら、急になんだか笑えてきた。
　ぽかんと呆けたあおいの前で、くすくす含み笑い。そのうち、大きく口を開けて笑った。
　あおいも思わず笑みをこぼす。くすくす、くすり。揃って、大口を開けて笑った。
「ふふ……なんか、ね。ちょっとギクシャクしてたかも」
「そうだね、ちょっと意識しすぎてた」
　待つだけでなく、変わらない間柄であることもまた、彼女の望みであったはずなのに。
「いつも通りでいこう。しばらくは」
「うん。気を使わせちゃってごめんね、ありがとう」
　彼女の頬に赤みが差しているのは、今日の寒さのためばかりではないと信じたかった。

　雪が小降りになったところを見計らい、校舎を出た。
「見送りなんていいのに。桜花寮はそんなに遠くないよ？」
「いいんだ」
「そう？　あ、それじゃちょっと寄り道しない？」
　白い絨毯をさくりと鳴らし、キャットロードへ逸れた。歩むたびさくり、さくりと小気味よく鳴った。
「ののちゃんに聞いたんだけど、新しくできたたい焼き屋さんがすっごく美味しいんだって。食べてみたいなって思ってたんだ」
「いいね、寒い日にはぴったりだ」
　つぶあんと白あん、たい焼きをふたつ買い、揃って頬張る。冷えた身体にあつあつの餡が染み入った。半分食べたら、頭としっぽを交換して違った甘味を楽しんだ。
　これでいい、とは思わない。だが、これもいいと思う。
　ひとつの区切りは越えたが、次の区切りはまだ先なのだ。それまでは変わらず過ごせたら、と願ってやまない。
「それじゃ、ここで。見送りありがと、彰尋くん。また明日ね」
「うん。また明日」
　少なくとも今はこの別れに、焦燥や理由なき煩悶が伴うこともなかった。
（……また明日。あおいさん）
　しばらくは、こんな心地良い距離感が続くだろう。
　本当の答えが返る、その時までは、まだ。

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