……アンド・ユア・バード・キャン・シング｜リアクション

……アンド・ユア・バード・キャン・シング

　紅美は頭を抱えるようにして走っていた。無我夢中だ。どこに向かっているのか自分でもわからない。
　絶望し死を覚悟したところで窓の外に人がいた……？
　手紙を持っていた。助けに来たと言っていた。
　なのになぜ自分は逃げてしまったのか。いまも逃げているのか。
　まったくわからない。けれど足が止まらない。
　なりやまぬ非常ベルが、考える時間を与えてくれない――！
　気がつくと階段を駆け下りていた。食堂のあたりからばらばらと入居者たちが出ている。一列になって歩いている。あの先は施設出口だ。
　あそこに加わったら、逃げられる。
　でも逃げてどうするというのか。
　立ち尽くしている紅美に、高校生らしき少年が話しかけてきた。
「やあ？　どうしたのかい？　出口はこっちだよ」
　整った顔立ちだが髪型がやけに特徴的だ。海産物、そう、ワカメのような。
　しかしその少年――鷹取洋二をおしのけるように、見知らぬ少女が手を伸ばしてきた。
　エレノアは、肩を組むようにして紅美を支える。
「おい大丈夫か！？　なに？　ああ腹痛か、少し休むか」
　その言葉は、自分ではなくあの少年に話しているように紅美には聞こえた。
　かわりに彼女は紅美に囁いたのである。
「助けにきたぜ」
　と。
「二人で話してぇから調子を合わせてくれ」
　紅美は小さくうなずいた。
「ええと、どうしたのかな？」
　洋二は言いかけたが、これにかぶせるようにしてエレノアは声を上げた。
「腹痛だよ！　いや男じゃ……女には色々あんだよ！　私が付き添う！」
　あっ、と洋二は口をつぐむ。
「そ、そうかい……でもいま大変だから、すぐ進んでおくれよ。出口はあっちだから」
　言い残して去る。そしてエレノアは、通路脇に置かれた清掃用具入れの陰に紅美を引っ張り込んだ。行政が金を出していながらこの施設はカメラだらけだ。しかしここなら監視カメラの死角である。
「あんた、誰なの？」
「誰でもいいだろ」
　エレノアの薄笑みはまるでチェシャ猫だ。紅美を黙らせるに充分な凄みがあった。
「これをやる。使えよ」
　エレノアは紅美の手に、鋭く細く、長いアイスピックを握らせた。
「ガタイに関係なく、隙を突いて眼にアイスピックをぶち込むのはそう難しくない。だから……やっちまうのさ。一番憎いやつをな」
　でも、と言いかけた紅美の前で、唇に人差し指を当ててみせる。
「脱出とか考えてるのか？　今帰宅してどうなる？　こんな人捨て場に大枚はたいてぶち込むってことは、親はお前を合法的に殺したがってんのさ。自殺でもしてくれろってな。つまらんジョークだ」
　ハハハと引き気味に、乾ききった笑い声を立てる。
「……だからお前が手直ししてやるのさ、暴力で彩った笑えるユーモアに」
　しっかり握れよ、と耳打ちする。その声は果てしなく甘美だった。熟れきって汁を垂らし、いまにも樹から落ちそうな果実のように。
「いいか？　お前が中学生で不当に監禁されているってことは、ここの職員をどんなやり方でやってもおとがめなしなボーナスステージてことさ！」
　ほらよ、と肩を押してエレノアは紅美を放した。
「この部屋を出たら私とお前は無関係だ……やった後は笑顔を忘れるな」
　紅美は出口への道と、施設の奥へ進む道、その両方をしばらく見比べていた。
　警報が鳴り響いている。ずっと。
「――！」
　やがて意を決したように、紅美はアイスピックをジャージ上着のポケットに押し込み、出口とは反対方向に歩み出したのである。
　アイスピックの尖端がポケットをつき破り、銀色の小動物が尾を垂らしているかのように飛び出していた。
　エレノアは紅美の背を見送る。もう一度、凄艶な薄笑みを浮かべる。
　これが、エレノアが彼女に与えてやれる『解放』だ。