緩慢に海に落ちゆく雨はまるで、天から垂れ下がる蜘蛛の糸。
不確かで、か細くて、いまにも切れてしまいそう。
窓枠に手をかけ、
芋煮 紅美(いもに・くみ)は透明な瞳で雨を眺めている。
手を伸ばせば、蜘蛛の糸をつかめるだろうか。
試すことすらできない。
窓には、頑丈な鉄の格子が填(は)められているのだから。
数日前のことなのに、昨日のように覚えている。
紅美は自室のドアの内側で、漫然とスマホゲームをプレイしていた。アカウント名は
紅(くれない)、遊びというよりほとんど作業だ。ぽちぽちとした操作の繰り返し。
まだ火曜日、今日を含めあと水木金の計四日間、この作業が紅美にとっては、世界との唯一の接触となるだろう――と思われた。そのときは。
ドアがノックされた。母親が朝食を持ってきたのか。
「置いといて」
顔も上げずに告げて、画面内のミニキャラを左方向に動かした。
「紅美さん、ですね」
ハァ? と紅美は尻上がりに問い返した。知らない男性の声だった。
続いて母親の声がした。か細くビブラートのかかった声だ。普段よりずっとビブラート強めの。
「紅美ちゃん、あのね、お父さんと話して決めてもらったの、紅美ちゃんいつまでもこうしていちゃいけない、って。学校はね、行かなくていいのよ。でも……」
またか――げんなりした。
カウンセラーだかセラピストだか、とかくその手のたぐいだろう。
引きこもりになった当初は散発的に、そういうのが家に来たことがあった。一二度は会いもした。でもそれからは無視を決め込んでいた。端的にいって、何の役にも立たないからだ。
短く、やや大きな声でドアの向こうに言った。
「帰ってもらって」
しかしこれまでとはちがった。
ドアのところでガチャガチャと音がした。かと思いきや突然、ドアノブがごとりと内側に落ちたのだ。
え? と思う間もなくドアが開けられた。がっしりした体格、清掃職員のような黒い制服を着た男がふたり、立て続けに紅美の部屋に踏み込んできた。
「自立支援施設『EAB』のサカモトと申します。芋煮紅美さん、あなたは今日から、わたくしどもの施設で生活することになりました」
言葉こそ丁寧だが有無を言わせぬ口調だ。サカモトと名乗った男は紅美の腕を強くつかんだ。紅美の手からスマートフォンが転がり落ちる。
「ちょ! なにそれ!? 放して!」
「来るんだ」
「やめて! なんの権利があって、あんた」
「権利? これだよ」
もうひとりの男が書類をかかげた。よくわからないが契約書のようだ。紅美の父親の名が母の筆跡で書かれており、印鑑が押してあるのが見えた。父親からこのEABとかいう団体に、ぎょっとするほどの金額が支払われていることもわかった。
「手こずらせるね」
手慣れているのだろうか、サカモトはためらうことなく、パジャマ姿の紅美を横抱きにして部屋から連れだした。
後は叫んでも暴れても無駄だった。紅美は、外に停めてあったライトバンに押し込められ、拉致(らち)同然にこの施設に収容されたのである。
収容という言葉は大げさではない。
畳敷きの狭い部屋には小さなトイレと、机がひとつあるきり、テレビも電話もない。本棚には書籍が並んでいるが、自己啓発本やオカルトじみたビジネス書といった手に取る気すら起きないたぐいのタイトルばかりだった。
服装も自由ではない。くすんだ白いジャージ上下を着回している。
毎日、自立支援教育という名の苦役が課せられた。
小学校低学年レベルの漢字の書き取り、計算ドリル……紅美は中学生である。こんなにバカにした話もない。
あとはシールや手帳の封入作業だ。ダイレクトメール封入作業というものもあった。これは内職というものではないだろうか。当然給料など出ないのだが。
いずれも一定のノルマをこなさなければ食事が抜かれる。最初は反抗して作業を拒否していた紅美だったが、丸一日抜かれて根負けした。
食事は大食堂のようなところで取る。
水っぽい味噌汁と変な匂いのする白米、干物みたいな魚ないし漬け物だけという粗末なものだが、わずか10分という時間制限があり、大急ぎでかきこまなければならない。
食事中、他の入居者との会話は禁止されている。それでも、短い隙を見ては周囲の人間に話しかけている男がいた。貧相を絵に描いたような中年で、頭はぼさぼさで無精髭がひどい。訊かれなくてもいちいち、自分は
根積(ねづみ)という者だと名乗っていた。
「おじさんはね、ここ以外行くところがないんだ」
ある日の昼食時、根積が紅美に語った言葉だ。
「大きな事件を起こしてしまってね。……でも証拠不十分で釈放になって、途方に暮れていたところで、元の雇い主にここを紹介してもらって。まあ、雇い主もいろいろと後ろ暗いところのある人だから、厄介払いという意味があったのかもしれませんけどね。いやもしかしたら、罰ないし復讐なのかも。でもね私は、ここの生活に満足してるんですよ。三度三度お薬が支給されるんで、自分のなかの嫌な部分に向き合わなくてよくなって静かに暮らせるし、規則正しい生活はできるし……」
いつの間にか口調が変わっている。銀縁眼鏡の奥の目は天井を見つめていた。紅美ではなく自分自身に言い聞かせているのだろうか。薄気味悪くなって、紅美は生返事して食器を下げに立った。
途中で、やつれた顔をした女の人とすれちがった。ジャージの色がグレーだ。ということは紅美のように『引きこもり矯正』で入居したのではなく、行政の紹介で引き取られた人らしい。
「ごめんね、ごめんね……」
なにか思いだしたのだろうか、女の人はぽろぽろと涙をこぼしていた。
「あの……」
話しかけようかと思ったとき、食事時間終了の鐘が鳴った。
■ ■ ■
いつも昼すぎに起きる
あんなが朝早く目ざめたのは、ノックする音を耳にしたからだった。宅配便やセールスのたぐいじゃない、か細いが切実な響きがある。
「……あい」
孤独そうな酔客につきあって深酒したため、どんよりした目でドアを開ける。
「桐太君……っすか!?」
目深にかぶったキャップ、さらにジャンパーのフードで頭を覆うという姿を見せたのは、かつてこのボロアパートの階下に住んでいた、そして、母親が自殺未遂した直後は、一時的にあんなと暮らしていた少年の姿だった。本人としてはフードと帽子で精一杯変装しているつもりなだろうが、バレバレなのがほほえましい。
けれどあんなは笑ったりしなかった。二日酔い気分なんてたちまち月まで吹き飛んだ。思わず目に涙をためて、
「桐太君! 施設の生活が辛いんすか!? 逃げてきたんすか!? それなら大丈夫、自分がかくまってあげるっすから、いつまでいてくれたって……」
ひしと抱きつくのだが、
比嘉 桐太(ひが・とうた)は首を振った。
「ちがうんだ、あんなお姉ちゃん。おねがいだよ、お母さんを助けて……!」
■ ■ ■
「ぼーらんてぃあ♪ ボランティア♪」
桃太郎さんの替え歌で、今日も楽しげな
野々 ののこである。
「こらこら野々くん、遠足に行くわけじゃないからそんなにはしゃいじゃだめだよ」
ワカメみたいな前髪を、ふっと慣れた手つきで
鷹取 洋二はかきあげる。
ある晴れた休日の朝。本日、寝子島高校を中心とする有志たちは、社会福祉施設の手伝いにおもむくのだ。
「そうだよ、いろいろ問題を抱えた人たちが支え合って暮らしている施設だから、そんな物見遊山気分はよくないと思うよ」
たしなめる
七夜 あおいに「それはそーだけどさぁ」とののこは言った。
「だからといって暗い顔して黙々と作業してたら逆に、入居者の人だって暗くなっちゃうと思うよ」
「んー、なるほど、一理あるね」
洋二は大げさに腕組みして顎に手をあてる。なんというかこの人は、いちいち芝居がかった仕草をしたくなる性分なのである。
「まあ僕も全力でボランティアに行くというよりは、奉仕活動したいという気持ちが半分、あとは社会勉強したいという気持ちと、受験からの一時的な逃避が四分の一ずつってところだからなあ……」
えっ、とあおいが言う。
「鷹取先輩も進路について悩んだりするんですか?」
「七夜くん、時々きみ、素で厳しいこと言うよね……僕だって人間、人生の行く先について悩んだりもするのさ」
とは言うもののやっぱり、あまり悩んでいないように見える洋二なのだ。今だって彼はエアギターならぬエアバイオリンを奏でるポーズを取っているのだから。
一行を乗せた小型艇は、白波を蹴立てて海をゆく。
行く先には、ぽつんとたたずむ小島があった。
島の岬、というよりは絶壁のような位置にたたずむ建物は、かつて政府関係の施設だったが、現在ではEABなる社会福祉法人が買い取り、自立支援施設に改装しているのだという。木天蓼市が一部資金を出しているという経緯もあり、このたび島に最寄りの寝子島町に、施設見学をかねた一日ボランティアの募集がかけられたのだった。
島が近づくにつれ空が曇りだした。
勢いよく立つ波も黒ずみはじめる。
桂木京介です。
今回もシナリオガイド長くなってしまいました。ここまでお読み下さりありがとうございます!
シナリオ概要
潜入アクションや冒険の要素のあるシナリオです。
社会復帰支援や自立支援という名目で、主としてひきこもりの当事者を監禁同様に収容し使役している業者から脱出、ないし利用者を解放することがメインの流れとなるでしょう。
シチュエーションについて
みなさんのシナリオ参加については色々なきっかけが考えられます。
たとえば……。
○ボランティア活動としてゴミ出しや清掃作業に参加。しかしこの施設に不審を抱き調査を開始する。
○いつの間にか収容されていた。収容者として脱出を考える。
○紅美が海に投じた手紙入りの小瓶(実は冒頭のシーンで窓の隙間から捨てています)を受け取る。
○新進気鋭の経営者を自負する所長(坂元)にメディア記者としてインタビューを行う。
○あんな、ないし桐太に母親の救出に協力してほしいと頼まれる。
上記はすべて例でしかありません。
テオから依頼を受けるなど、意外なきっかけでも取り入れますので、自由に発想してみてください。
施設について
施設は刑務所のような構造です。高い塀があり、監視カメラがあちこちに設置されています。
施設側職員はみな表向きニコニコしていますが、目が全然笑っていません。ボランティアで入った皆さんには、「ここから先は立ち入り禁止」「そこから先も禁止」とやたら不自由を強いてきます。
所長は坂元という男性で、自分は社会のためにこの事業をやっていると断言しています。何冊か著作も出しており弁も立ちます。
細身ですがしなやかな筋肉を持ち、空手の達人でもあるようです。
他の職員も、やけに体格がいい者が目立ちます。
NPCについて
以下のNPCは本作において特定の働きをするかもしれません。
●紅こと芋煮 紅美
中学生。ひきこもり状態で週末ごとにゲームショップに行くくらいしか楽しみがない毎日を送っていましたが、両親によってこの施設に送られました。
ずっと脱出を考えています。
●根積 宏一郎(ねづみ・こういちろう)
貧相な外見の中年男性です。
恨みのパワーで巨大化するという、ジキル博士に対するハイド氏のような存在マウスを抱えていました。
ある事件の結果、釈放はされたもののスポンサーからこの施設に送られます。
彼は現在の生活の継続を望んでいるようです。展開によってはみなさんと敵対するかもしれません。
●比嘉 美佳(ひが・みか)
若いシングルマザー。生活苦から自殺を図りましたが救出されました。
その後、保護の名目でこの施設に収容されています。
●比嘉 桐太
美佳の息子です。なんらかの手段で母のおかれている状況を知り、救出を求めます。
●野々 ののこ、七夜 あおい、鷹取 洋二
寝子島高校でボランティアを募集しているのを見て応募しました。
まったく事情を知らず素直に手伝いをするつもりです。
展開によっては登場しない人物もいます。
また展開によっては、ここに挙げなかったNPCが登場する可能性もあります。
あなたのご参加を楽しみにお待ちしております。
次はリアクションで会いましょう。
桂木京介でした!