白銀の三夜湖に招かれて｜リアクション

白銀の三夜湖に招かれて

　噂を信じていなかったのか。羽生碧南は凍り付いた三夜湖を見て立ち尽くす。丸い目のまま、辺りを眺めた。
　氷に穴を開けて釣りを楽しむ人物がいた。スケート靴で天然のリンクを楽しむ人々がちらほらと見受けられた。
「……大丈夫みたいね」
　碧南は一方に向かって歩き出す。温かい飲み物や食べ物を提供する露店とは違う。台の上には大小のスケート靴が並べられていた。
　店主である小太りの女性がにこやかに笑う。
「一日、五百円で貸出中だよ」
　碧南は料金を支払った。店主に足のサイズを聞かれ、その場でスケート靴に履き替える。
「こちらの靴は預かっておくよ」
「ありがとう」
　明るい声を返した碧南は思い切って飛び出した。天然のリンクは少し荒く、細かい振動が身体に伝わる。引っ掛からないようにして伸びやかに滑る。人の密集しているところは避けて大きな弧を描いた。
「慣れてきたかも」
　視線を上げた。ダウンジャケットの上部を少し開ける。首筋に程よい風を受けて軽快に滑る。
　流れる景色に黒いロングコートの人物を見つけた。スケッチブックを開いて頻りに左手を動かしている。独特な髪型で右目は前髪に隠れていた。
「鷹取先輩！」
　碧南が呼び掛けると顔を上げた。にやりと笑って軽く左手を挙げた。
「羽生くんも来ていたのか。どうだい、白銀の世界は」
　鷹取洋二の問い掛けに碧南は小難しい顔で立ち止まる。言葉を探し、途中で諦めたように笑顔を見せた。
「自然と遊んでいる感じです」
「悪くない表現だね。僕はスケッチブックに閉じ込めようとしていた。逆に自分から自然に飛び込むのもいいかもしれない」
「その、先輩も一緒に滑りませんか」
「そうだね。大自然の懐に飛び込んでみるよ」
　碧南の案内によって洋二はスケート靴に履き替えた。
　店主は靴とスケッチブックを掲げて言った。
「こちらで預かっておくから元気に滑っておいで」
「よろしく頼む」
　洋二は黒いコートをはためかせて滑り出す。碧南は寄り添うように付いていく。
「先輩、滑れるんですね」
「ほんの少しだ。芸術性の高いトリプルアクセルには届かない。瞼を閉じて想像することしかできないよ」
　洋二は自身を抱くような姿で目を閉じた。
「せ、先輩、危ないですよ！」
「……さすがは僕だ、エクセレント」
　想像の中でトリプルアクセルを決めたようだった。自信に満ち溢れた表情に碧南は目を奪われた。
「そうじゃなくて！」
　碧南は前方を睨み付ける。氷の終わりが見えてきた。湖岸には砂利が多く、危険を予感させる。
　洋二は未だに目を閉じていた。人々の喝采を一身に浴びているかのように悠然と微笑んでいる。
「ごめんなさい！」
　大きな一言で碧南は前に出た。氷の際でくるりと向きを変え、正面から洋二を受け止めた。
　その衝撃でようやく目を開けた。
「ここは」
　洋二は左右に目をやる。多くの砂利を目にして、なるほど、と口にした。
「迷惑を掛けたようだ、すまない。羽生くん、そろそろ手を放してくれないかい？」
「え、あ、はい！？」
　回していた両腕を慌てて解いた。反動で後ろに倒れそうになる。洋二が素早く背中に腕を回して支えた。
「お互いに気を付けないと」
「そ、そうですね」
　少し頬を赤らめて小声で言った。
「先輩、もう少し滑りませんか。なんか、そんな気分なんで」
「そうだね。今度は自然を愛でながら滑ろう」
　先に碧南が動いた。力強い蹴り足で勢いを付ける。顔に存分に風を受けて目を細めた。
「脳内の乙女ゲーが、もうね……」
　長々と息を吐いて後ろを振り返る。
「鷹取先輩、まだまだ滑りますからねー！」
　本心を隠すかのように溌溂とした声が辺りに響き渡った。

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