「これ……ろっこん水じゃないよな？」
　長机の前でぽりぽりと近石 簾が首を掻いた。先程のネズミ騒動で水が入れ替わっていないか警戒しているのだ。……俺、あん時目ぇ閉じたりしてたからわかんねえんだよな。
「大丈夫……僕が見張っていたから」
　恵御納 夏朝が簾に水を差し出しながら、しっかりと頷いた。ネズミに苦労していた夏朝だが、候補者達へのイタズラだけは許さないと、そこはしっかりとチェックしていたのだ。
「ありがてえ！　じゃあ飲ませてもらうな！」
「まうも、ジュース飲む。あの……お手伝いと、見張りを、ありがとうございます」
　候補者２人は揃ってぺこりと夏朝にお辞儀をする。そして仲良く「頑張ろうな！」などとと言いながらまた温泉に戻っていった。
　その背中を見ながら夏朝は心の中で２人に声をかけた。
（―――どっちとも、最後まで頑張れ！）


＊


「さあ、休憩も終わったし、お帰りなんだぜ～。水飲むか？」
　２人が温泉に入ると、朱蘭が赤ら顔で出迎える。それを見て２人は顔を見合わせた。
（そういえば……この人の事は見張っていなかった）
　ネズミ退治に奔走している時、朱蘭の飲み物は誰もチェックしていなかった。……果たして、これは本当の水なのか？
「これは本当にただの水か？」
　簾が正面切って朱蘭に尋ねた。朱蘭は、ん～？　と首を捻った後、へらりと笑った。
「どうかな？　あたしもネズミが水着に入ったりして忙しかったからな。ネズミが替えてるかもしれないぜ？」
　飲んでみたら分かるんだぜ～と言いながら、朱蘭は盆にコップを載せる。２人はごくんと唾を飲んだ。
　さっき休んだとはいえ、もう体は限界一歩手前だ。少しでも水分は欲しいが、ここでろっこん水を飲んだら致命傷になるかもしれない。
　だらだらだら。コップを前に硬直する２人。けれども、暫くして片方が動いた。
「分かった、俺が飲むぜ！」
「え？」
　驚くまうに簾はにかっと笑った。
「まあダメならダメで運がなかったってことだ！　大丈夫だったらあんたも飲めばいい」
　そう言うと簾はコップを手に取り、くーっと一気飲み。ぷはぁと上げた顔は……赤かった。
「くそーっ！　ろっこん水か！」
　ぐらりと倒れそうになるが、意地で持ち直す簾。心配そうなまう。これで勝負が決まったかという時、ある鳴き声が響いた。

「にゃー♪」

「にゃー？！？」
　バッとまうがその方を見る。そこには先程大活躍した猫達が並んでにゃーにゃー鳴いていた。
「ああごめんなさい。お礼のニャオチュールよね。今あげるわ」
　神野 美野梨が慌てて姿を現した。恐らく猫達のために用意をしてきたのだろう。尻尾をピンと立て美野梨の周りに集まる姿を見ながら、まうは相好を崩した。
（ああいいな……猫達があんなに嬉しそう……）
　本当に今すぐあそこに行って、猫達におやつをあげたい。そしてなでなでしたい。
　意識を完全に猫達に飛ばしていたまうは、ハッと気付いてぷるぷると首を振った。いけないいけない、今は選任戦！
　けれどもまた猫達はねだるようににゃーにゃー鳴いている。その甘えた声の可愛い事。
（はあ……猫……）
（いけない、選任戦）
　まうの心は行ったり来たり。その度に頭は右左。その内に。
「あ、あれ……世界が……回る……」
　頭を動かしすぎたまうの視界は揺れまくる。一気にのぼせてしまったのだ。
　あわや沈んでしまう！　というその時。朱蘭がまうの背中を支えて言った。

「これ以上はドクターストップだ！　―――新たな自治会長は、近石簾に決定だぜー！」

　おおおっと温泉内にどよめきの声が響く。その後すぐに声は温かい拍手に変わった。
「おお～、さんきゅー。すげぇ嬉しいんだけど……とりあえず、上がらせてくれ……」
　赤い顔で歓声に応えていた簾はゆっくりと湯から上がろうとして……その場で力尽きた。
「近石！」
　慌ててサキリ・デイジーカッターが駆け寄り、まう陣営の獅子唐 ケンジも手を貸す。
「すんませ～ん、伸びてました……って、どうした？！」
　ようやく落ち着いて顔を出した北里 雅樹も加わって、無事に簾は男３人に引き上げられた。


＊


　しばらく時間をおいてから（何せ新会長も湯あたりしたので）、改めて結果発表が行われた。

「では、新会長の近石簾、前に！」
　朱蘭の声に簾が立ち上がった。まだ頬は赤いが、単に照れているだけかもしれない。
　前に出てきた簾は皆を前に、ぺこりと頭を下げた。
「えーと、俺も最後伸びちゃったから何かしまんねえんだけど……もう、どっちが勝ってもおかしくなかったと思う。さんきゅーな、穂現！」
　突然自分の名前を呼ばれたまうは、黄色の瞳をぱちくり。「まうも前になんだぜ！」と朱蘭に言われ、皆の温かい拍手に囲まれながら前に進み出ると、ぴょこんとお辞儀をした。
「応援してくれた人……ありがとう。負けちゃってごめんなさい。でも、これからも猫鳴館を守るために、頑張る！」
「おう！　猫鳴館を愛する気持ちはみんな一緒だぜ！　よろしくな！」
　すっと簾が手をまうの前に出す。まうもそれに応え、２人は握手を交わし（簾は馬鹿力なのでとっても加減をしたが）、わあっと温泉内に歓声が上がった。

「じゃあ、代々自治会長に引き継がれた『猫鳴館の鍵束』を渡すんだぜ」
　そう言って朱蘭は簾に鍵束を握らした。そしてゆっくりと言った。
「自治会長は『あかずの間に毎月お供え物をするのを忘れないように』しないといけない。特にこれからは色々大変になると思う……だが！」
　うん、と頷き朱蘭は猫鳴館生達を前に言った。
「我慢強さや困難に対し協力する姿勢、見事だったぜ！　これなら何があっても大丈夫だ。頼んだぜ、新会長。そしてみんなも新会長を助けてやってくれなんだぜ！」
　全員が朱蘭の言葉にしっかりと頷き、大きな拍手が起こった。
「細かい引き継ぎは後日ゆっくりやるとして……もう今日は無礼講だ！　まだジュースもかき氷も余ってる。あたしのろっこん水もあるからな、皆好きなだけ温泉で楽しんでくれなんだぜー！」
　朱蘭が大きな声で伝える。やったー！　と歓声が上がり、陽気な猫鳴館生達が思い思いに散っていったが、簾とまうだけはその場に立ち尽くしていた。
「なんだ、行かないのか？」
　朱蘭が首を傾げる。２人は顔を見合わせ……同時に言った。
「「もうしばらく……温泉はいいかな！」」