別れの空｜リアクション

別れの空

　穏やかな休日の朝は掛かってきた一本の電話で打ち破られた。
　白石妙子は目を丸くして夫の声を聞いた。頻繁に首を傾げたせいで眼鏡がずり落ちる。直す余裕はなかった。
「……わかりました」
　半ば放心した状態で通話を終えた。数回の瞬きで立て直し、眼鏡を押し上げる。
「引っ越し、子供にも教えないと！」
　妙子はパンと掌を合わせた。

　朝の時間が緩やかに過ぎてゆく。朝食後、子供は元気に外へと飛び出していった。
「引っ越しにショックを受けないのね……」
　残された妙子は落ち着きのない目を方々に向ける。
　――何から始めたら。役所と小学校はお休みだし。ＰＴＡと子供会の役員の引き継ぎもしないと。
　立った状態で目だけが気忙しく動いた。その中、何とはなしに手に取ったのはアルバムだった。開いて見ると家族の写真が収められていた。
　――結婚して寝子島に移り住んで、もう十年になるのね。
　当時を思い出すような目で頁を捲る。子供の写真に頷き、夕景の海や櫓を囲んだ盆踊りには微かな笑みを浮かべた。
　パタンとアルバムを閉じた。目は窓に関心を向ける。ガラス越しに見える青い空に意識を傾けた。
　――荷造りよりも、することがあるわ。寝子島を離れる前に思い出の場所を巡って目に焼き付けないとね。
　妙子はブラウスに薄手のコートを合わせた。青い空に相応しい晴れやかな顔で出掛けていった。

　シーサイドタウンの通りは原色のコートを着た人々で彩られていた。その鮮やかな色に妙子が加わる。風に吹かれる気ままな落ち葉のように軽やかに歩いてゆく。
　行き着いた先で足を止めた。フェンス越しに寝子島高校を眺める。ゆっくりと歩を進めながら記憶の糸を手繰り寄せた。
　――あの時はライトアップされていたのよね。夜市って催し物だったわ。行き先に悩んでいた時に素敵な出会いに恵まれて、ライブも一緒に楽しめて、独身の頃に戻ったように楽しい一時を過ごせたのよね。
　グラウンドが見えなくなり、正門に差し掛かる。左手に顔を向けると、あ、と声が漏れた。黒いジャケットを羽織った小柄な眼鏡を掛けた男性、海原茂が歩いてきた。
「あの時の……」
　思い出したくない過去なのか。妙子の視線は明後日の方向を彷徨う。辛うじて踏み止まって無理に笑顔を作った。
「あの、私を覚えていますか？」
　茂は立ち止まって眼鏡を正す。押し上げる指が僅かに震えていた。
「もちろんだ。忘れられない体験をした。特に鍋の味が凄まじかった」
「……闇鍋ですから」
　二人は項垂れた姿で口を閉ざす。どちらも顔を赤くして眼鏡が白く曇り始めた。
　先に妙子が顔を上げた。話し掛けた手前、勇気を奮い起こす。
「その、今度、引っ越しで、寝子島を離れることになりました」
「そうか。転居先は知らないが気分一新で頑張って貰いたいでちゅ。い、いや、違うぞ、口癖じゃないからな！　たまたまだ！　そ、そうだ、まだ、母校に用事が残っていた！」
　茂の顔は完全に茹で上がっていた。白い眼鏡のまま、蛇行しながら早足で戻っていった。
「……疲れたわ」
　手で顔に風を送りながら引き返す。
　――あの時のことを思い出すだけで顔が熱くなるわ。人の視線が気になって、これ以上は外にいられない。
　視線を下げた状態で足を速める。知り合いに出会うことはなかった。妙子は無事、家に帰り着いた。
　即座にコップを掴み、並々と牛乳を注いで一気に飲み干す。
「ふぅ～、ようやく落ち着いてきた」
　見計らったかのように二度目の電話が掛かってきた。出ると相手は夫であった。
「引っ越しの準備はまだ、え、もう必要ない？」
　妙子は驚きの表情となった。電話を切ったあとも呆然と立ち尽くす。
　よろけるようにして近くの椅子に座った。テーブルに両肘を突き立てて指を組み合わせる。その上に額を載せた。
「さっき引っ越すって言ったばかりなのに……」
　やや背中を丸めて大きな溜息を吐くのだった。

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