○○の秋｜リアクション

○○の秋

食欲の秋
　森篠琳子は図書館で一般常識の勉強に励んでいた。要点となる部分をノートに手早く書き写す。重要な部分には目立つように下部に赤い線を引いた。
　やがて問題集に取り掛かる。設問の答えをノートにすらすらと書き連ねていく。
　その手が止まった。書き込んだ答えをシャープペンシルの先で何度か突いた。
　上体を起こして控え目に伸びをした。同じように勉強に打ち込む者達が目に映る。各自、大学受験用の教材を積み上げていた。
　――大変そうね。寝子島信用組合の就職試験も似たようなものだけれど。
　再び、問題集と向き合う。緊張を切らすことなく、次々と設問を解いていった。
　数時間が経過した。琳子はシャープペンシルを置いて目頭を揉んだ。意識した瞬きで腕時計に目を落とす。午後二時を回っていた。
　――疲労と空腹で集中力が途切れたようね。
　足元に置いていたトートバッグに私物を収めると席を立った。

　琳子はシーサイドタウンに向けて歩き出す。物の数分で目がステーキハウスに引き寄せられた。店先で足を止めた。肩に引っ掛けたトートバッグから財布を取り出し、中身を確認する。その表情は冴えない。
　――金額で言えば食べられるけれど、月の初めで無理はしたくないわ。今から家に帰っても昼食は残っていないと思うから、どこかでは食べないと。
　弱々しい笑みで歩き始めた。すぐに別の店舗に目が向かう。カレー専門店のドア横にはイーゼルが立てられていた。メニューの一部が載せられていて、どれもが千円を超える。
　――今の私には手が出せないわ。本当は食べたくて、仕方がないのに。
　歩きながらも横目で店舗を見やる。え、と声が漏れた。窓の一つに貼られたポスターに向かって思わず生唾を呑んだ。大きな見出しには『チャレンジメニュー』と赤い文字で印刷されていた。
　――時間制限はあるけれど、完食すれば五千円の賞金も手に入る。チャレンジが失敗すれば、分量に合わせた代金を支払うことになるわ。
　数秒の間で決断した。琳子は厳しい表情で店のドアを開けた。
　木造の店内は客で賑わっていた。昼時を越えた時間帯にしてはかなり多い。
　――味には期待できそう。
　琳子はカウンター席の空いているところに座った。間を空けず、若い男性店員が手前に水を置いた。
「メニューはお決まりでしょうか」
「チャレンジメニューにするわ」
　その一言に男性店員は身を寄せてきた。
「本当によろしいのですか？　相当なボリュームですよ。お客様のようにスリムな方ではかなり厳しいと思うのですが」
「今日はチャレンジしたい気分なのよ」
　琳子は言葉に微かな笑みを添えた。男性店員は理解した様子で引き返していった。
　数十分後、チャレンジメニューが眼前に置かれた。
　床の間に飾るような大皿の奥側にご飯が盛られていた。その頂には狐色に揚げられた分厚いトンカツが切り身で置かれ、僅かに覗く桃色の断面は肉汁で艶やかに濡れ光る。手前の谷底には深い色合いのルーが広がっていた。
　琳子は引き気味の顔を戻し、神妙な顔でスプーンを手にした。
　――これがポスターにあった三キロの凄味なのね。本当にこれを私が……。
　スプーンを縦にしてトンカツの一部を切った。少量のルーを付けて口に運ぶ。咀嚼すると口の中で小気味よい音がした。
「……あ、美味しい」
　白い山の裾野をスプーンで切り崩し、ルーに浸して食べ進める。合間にコップの水を飲んだ。額や首筋に浮いた汗はハンドタオルで拭き取った。
　琳子は無言で食べ続けた。巨大な山を征服する覚悟でスプーンを動かす。
　――美味しさに引っ張られて、いくらでも食べられそう。
　目は輝きを失わず、スプーンを動かす手は加速してゆく。
　カツンと音がした。掬おうとした先には何もなかった。
「ウソ……これで完食？」
　見守っていた人々が歓声を上げた。琳子は晴れやかな顔で店主から金一封を受け取るのだった。

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