たとえ今日が、終焉（おわ）りゆく明日の始まりだとしても｜リアクション

たとえ今日が、終焉（おわ）りゆく明日の始まりだとしても

　氷那月蒼破はじっと、ゲーム修了後の盤面を見つめている。
　惨敗だった。気持ちいいくらいに。
「やはり強いな……辛勝も難しいか」
「いいえ、氷那月さんは以前よりずっと上達されました」
　あいかわらず情け無用の指し方だったが、三佐倉千絵の言葉は柔らかい。
　負けは負けにしても蒼破にとっては前よりずっと有意義な負けとなった。千絵の思考ルートがある程度ながらたどれるようになったのだ。それどころか彼女自身のことも、いくらか理解できたような気すらする。
　ゲームの中に、このような相手への理解方法が存在していたとは。
　その想いは胸に納めつつ、
「では次は、よければチェスも一勝負願えまいか」
　最初のゲーム盤をしまって、蒼破はチェスボードを取り出した。
「チェスのほうは、自信がおありのようですね」
　さらりと千絵が言ったものだから蒼破は驚いて、
「どうしてそれが……？」
　と訊き返す。チェスボードは実家からの持参品だがそれほど使い込んではいない。言葉や目線から読み取ったのだろうか？
　すると千絵は、くすっと微笑して言った。
「いまのはブラフ（ハッタリ）です。氷那月さん、あなたが感じの悪い男性客だったとしたら、私はそのまま『チェスは駒の動かし方を知っている程度なんです』などと嘘をついてクイーン落ち（※）の勝負に誘導したと思います」
　そうして、『この提案に乗ったほうが悪い』とでも言わんばかりに全力で叩きつぶすということだろう。
「覚えておいてください。ゲームは、駒を動かしはじめたときではなく、行うことに同意したその瞬間から始まっているのですよ」
　本当に自分が相手にしているのは少女なのか、と蒼破は思う。しかし嫌悪感ではなく、むしろ敬意を覚えた。
　ハンデなし、いわゆる平手で対局を開始した。
　蒼破が白、千絵が黒。
「チェスゲームは以前、よく兄とやっていたものだ」
　差しながら時折、訥々と蒼破は言葉を挟む。
「性格の悪い手を打つ人だった」
　千絵は返事らしい返事をしないが、ときどきうなずくので聞いているのはわかった。彼女のことだ。うわべだけの相槌は不得手なのだろう。
「そんな兄だから……俺が、自分の目の届く所にいないと気が済まないようだ」
　千絵は特にコメントせず、宣言してクイーンサイドキャスリング（※※）を行った。
「今でも、本土の音楽の専科に編入し直せなどと言う……」
　兄のことを思いだしながら、そして、知らず口に出して批判しながら、蒼破は自分の指し手が、その兄そっくりであることを自覚している。攻撃的で、常に相手の隙を狙っていく戦法。
　――俺はやはり、兄の影響下から抜け出せないのか……！
　対する千絵の指し手は正反対といっていいくらい防御重視だ。攻めはほどほどにして徹底的に守る。コンクリート壁を想起するほどの堅牢さだ。それでいて、攻め手を緩めようものなら炎のように攻め込んでくる。
　蒼破が攻め疲れ、崩れるのが先か。
　千絵の防壁にヒビが入るのが先か。
　根比べに勝利したのは、蒼破だった。
「投了です」
　千絵が自分のキングを横倒しにした。蒼破は大きく息をつく。
「いい勝負でした。またご教授お願いします」
「こちらこそ……それはそうとして」
　ようやく自分の発言を振り返る余裕ができ、蒼破は申し訳なさそうに言う。
「途中、家のことなど、つまらない発言をしてしまった……気にしないでほしい」
「いえ。しかし氷那月さんを鍛えたのは、そのお兄様でもあるのですよね？」
「……そうらしい」
　兄に叩き込まれたやり方を最後まで逸脱しなかったことが蒼破の勝利につながったのである。勝利を決定づけたのも、その『性格の悪い手』であったことは認めるほかない。　
「今日は本当にありがとう。また勝負してもらっていいだろうか」
「喜んで」
　ところで、と千絵は手首を返して腕時計を見た。
「まだ時間がありますね。多少は気温も下がったし、私はプール開放に行くつもりです。氷那月さんはどうされます？」
「どう、とは？」
「高校生以下なら誰でも利用できるのですよ。プール、ご一緒しますか？」
「そ、それは……」
　まさかの問いかけに、蒼破は目を白黒させるほかない。

※正式な表現ではない。将棋でいう『飛車格落ち』に匹敵する大きなハンデ。『飛車格落ち』で将棋をするより、ハンデを与える側にとっては厳しいかもしれない。

※※防御を固める特殊ルール。例外的に一手でふたつの駒を同時に動かすことができる。もう少し条件の容易なキングサイド・キャスリングというものもある。

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