着信に気付き、スマートフォンを手に取る。
　ディスプレイに表示された名前を目にした瞬間、タイラ・トラントゥールの心は芯から凍り付いた。
　指が、どうしようもなく震える。
　それでも、電話に出ないという選択肢は、タイラの中には存在しなかった。
　通話ボタンを、たどたどしいような手つきでタップする。

『遅いぞ。僕を待たせるとは随分と偉くなったものだな』
　スマートフォン越しに聞こえるのは、美しい、けれど傲慢な調子を纏ったフランス語。
　声の主の名前は、リュゼ・トラントゥール。タイラの従兄だ。
　暗く冷たい水の底に深く深く沈んでいくような心地に、ひんやりとした眩暈を覚える。
　それでもタイラは、動揺のあまり覚束ないフランス語で、慌てて返事をした。
『ご……ごめんなさい、兄様。兄様を待たせるつもりなんて、ボクは……』
『まあ、いい。僕は今機嫌がいいからな、特別に許してやろう。それよりお前、夏休みには帰国するのか？』
　その問いを皮切りに、次から次へと、タイラに言葉を投げ付けるリュゼ。
　一方のタイラが零す声は、『はい』か『いいえ』が殆どだ。
　２人のやり取りに耳を澄ましていた者がいたならば、そこに尋常ではないものを感じ取っただろう。
　中々に著名な会社の、社長令息。
　商業系の名門グランゼコールへ最短で入学し、現在は最終課程に在学しているエリート。
　厳格な教育を受け、頭脳明晰・品行方正という言葉がぴたりと似合う青年……。
　そのどれもが、リュゼを表す言葉であり、それでいて、彼の本質を捉えてはいない。
　狡猾で、尊大で、サディスティックな、彼の歪な裏の顔。
　柔らかな愛情に包まれて自由に育てられるはずだったタイラを、その顔は許さなかった。
　今や、従兄の前では、タイラは従順な人形のようなものだ。
　リュゼは、幼少期よりタイラを玩具として甚振り、己に服従させ続けてきた。
　そしてタイラを、己に逆らうなんてことを一切考えられないよう、すっかり調教してしまったのだ。
『――だ。わかったな？』
『はい、兄様』
『よし。あとは……そうだな。友人は選べよ、タイラ。僕に恥をかかせるような真似は、心して慎め』
　一方的にそう言って、リュゼは電話を切ったようだった。
　そのあとのことを――タイラは、あまり覚えていない。

「ホットケーキが食べたい！！」
　一方、源 竜世は、自宅でそんなふうに騒いでいた。
　思い付いてしまったら、もう、口の中は完全にホットケーキの気分。
　けれど、母親は今家にいないし、ひとりでホットケーキ作りなんて、やったことがない。
　暫くの間、「うーん」と唸ったあとで、
「……そうだ！」
　と、竜世は琥珀の双眸を明るくした。
　すぐさま呼び出したのは、士星ナイト。
　ろっこんの力で人の形を得た、竜世のカプセルギア・スターライトナイトだ。
「ってなわけで、ホットケーキを作ろうと思います！」
　ぱちぱちと拍手をする竜世の前で、ナイトは盛大なため息を吐いた。
　そうして、じとりとした目つきをして、竜世を見つめる。
「たしかに俺は、炎のドラゴンとは言ったけどよぉ……」
「炎のドラゴンだったら、やっぱり、ナイトに頼るんであってんじゃん！」
「……先に言っとくが、マスターと腕は変わんねえからな」
　ぶっきらぼうに忠告して、ナイトは竜世の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
　竜世からしてみれば、相棒がいるだけで、腕は同じでも、ひとりでホットケーキを焼くのの百倍は心強い。
　かくして、ホットケーキ作りの始まり始まりだ。
「ええっと、先ずは卵を……」
「って、ああ！　ナイト！　たまごのカラ入ってる！」
「取り除きゃいいだろ、取り除きゃ。で、牛乳は……適当でいいか？」
「ダメ！　料理は適当だけどお菓子はぶんりょうだって母さん言ってた。測ったのがコレだー！」
「おおー、マスターやるな」
　２人のクッキングタイムは、ハプニングがいっぱいだけど和気藹々。
　けれど、ホットケーキのタネを楽しく焼いている最中に、竜世は気付いてしまった。
「大変だ……」
「？　どうした、マスター？」
「上に乗せるアイスがない！　買ってくるから、ナイト、焼いといて！」
　貯金箱からぴっかぴっかの百円玉を取り出して、竜世は、びゅーん！　と家をとび出した。

　それから、少し後のこと。
　タイラは、竜世の家の前に立っていた。
　ここに来よう、と思ったわけではない。気付いたら、ここにいた。
（アイツの、太陽みたいな笑顔を見たいとでも思ったのだろうか）
　暑い暑い夏の日だ。
　頬を鬱陶しいほど汗が伝っているのに、指先が冷たい。
　背筋にひやりと嫌な寒さが過ぎるのを感じて、タイラは身を震わせた。
　従兄の――リュゼの声が、耳元で囁かれたみたいにはっきりと、タイラの中に蘇る。
　――友人は選べよ、タイラ。僕に恥をかかせるような真似は、心して慎め。
　幻の声に操られるみたいに、チャイムは押さずに、そのまま踵を返す。
　向こうから駆けてくる竜世とばしりと目が合ったのは、その時だった。
「あれ？　タイラじゃん」
　スーパーマーケットの袋の中にカップアイスを揺らしながら、竜世。
「どうしたんだ？　オレに用事？」
「……なんでもない、通りすがりだ」
　こてん、と首を傾げる竜世にそう告げて、タイラはその場を後にしようとした……の、だが。
「！？　っ、おい、何をする、トリ頭！」
「いいから、うちに来る！」
　竜世にぐいぐいと引っ張られて、結局タイラは、竜世の家へと招き入れられた。
（だって……なんか、タイラまた変だ）
　それに気付けて、気付いたら放っておけないのが竜世なのだ。
「ただいま、ナイト！」
「おう、マスターお帰り……って、」
「……おい竜世、不審者がいるんだが」
「お前こそ、何でいるんだよ頭でっかち！」
　お帰り、を言った瞬間、苦いものを無理矢理飲み込んだみたいな顔になったナイトが叫ぶ。
　けれど、竜世はそれを気にも留めずに、タイラを椅子に座らせた。
　ナイトの前にあったホットケーキの皿を、タイラの前に置き直す。
「これ、オレが焼いたやつ！」
「……お前が作ったのか」
「はい、これ、ナイフとフォークな！　食えって！」
　甘いものを食べたら、きっと元気が出るだろう。
　そう思ったから、竜世はタイラの冷えた手に、半ば無理やりにカトラリーを握らせた。
「あ！　特別にアイスも乗せてやるな！」
　とっておきらしいそれをたっぷりと盛り付けられては、「食欲がない」とも跳ね付け難い。
　ナイフとフォークをゆっくりと動かして、タイラは、竜世お手製のホットケーキを口に運ぶ。
　卵の殻が、口の中でジャリっと音を立てたのに文句を言おうとして、やめた。
（……不思議だな。出来がいいとは言えないが……美味しい。とても）
　たぶん自分は、竜世の、優しい気持ちを受け取ったのだと、そんなことを思う。
　皿の上のものを残さず食べ終えたあとで、タイラは、
「お前はもっと腕を磨いた方がいいぞ」
　と、憎まれ口を叩いた。
　いつの間にか帰ってきた常の調子に、竜世は破顔したが、
「お前、俺が食べるはずだったマスターのホットケーキを完食しといて、何を偉そうに……！」
　なんて、ナイトが噛み付いたものだから、そのまま、喧嘩に雪崩れ込んだとか。