僕の歌は君の歌｜リアクション

僕の歌は君の歌

　軽やかな歌声が聞こえた。黒いベルベットシーツの上を転がる金色の鈴のような。
　振り返った佐和崎紗月はそこに、最愛の人の姿を見る。
「いいよ、続けて」
　初瀬川理緒は、こぼれた月明かりのような微笑を浮かべた。
「あたしも好きなんだ、その曲。オーディションのときに選んだ曲の一つだし」　
　ね、もう一度最初から――と理緒は紗月の両肩に手を乗せた。
　理緒ちゃん、と言ったまま紗月は二の句を告げない。
　しばし、吸い込まれたように理緒の瞳に見入った。
　理緒がまばたきする。これでようやく金縛りが解けたかのように、紗月は「うん」と短くこたえ、鍵盤に向かい合うと曲を最初から弾き直すのだった。
　指先は音を紡ぎながら、いつしか心は二年前に戻っていく。

　廊下の途中、足を止めて紗月は窓から桜の枝を眺めていた。
　入学式と同時に学校全体を包んだ無闇な高揚感も、ようやく薄れてきたころだったろうか。
　枝はもう、緑色の葉にあらかた覆われている。
　けれども紗月の視線の先には、その樹でおそらく最後の一つの、白い花弁が揺れていた。まだ巣離れできないひな鳥のように。
　ひとりぼっちだ、と思う。
　人見知りが強い紗月の、数少なかった友達はみな本土の高校に入り疎遠になった。
　クラスメイトは皆とてつもなく個性的で、なかなかそのなかに溶け込むことができない。もう女子の間では、大小のグループが形成されつつあるというのに。
　この日も紗月は、自然発生的にできた集団に参加できないまま、何となく下校しそびれて校舎に残っている。
　部活なりサークルなりに入る気もあまり起きなかった。
　だから行くあてはない。また歩き出したものの、慣れぬ校舎をぽつんと散策するだけだ。
　山のような紙束を抱えた男子生徒とすれ違う。
　ラケットをかついだ女子グループが、わいわい言いながら通り過ぎていく。
　今期の予算編成がどうの、と議論しながら生徒会役員たちが追い抜かしていった。
　気が付いたとき、紗月は音楽室の前に立っていた。
　入り口のドアが、まるで欠伸してるみたいに半開きになっていた。
　のぞいてみる。無人だ。
　グランドピアノが見えた。　
　黒くつややかで、色気すらまとっているようなピアノだった。
　ふらふらと音楽室に入りピアノに手を置いたのは、この楽器に呼ばれたように感じたから。
　よく覚えている。
　このときも紗月は、胸の奥で痛いような、甘いような背徳感を覚えていた。

　――勝手にさわったら駄目……よね。
　なのにピアノの蓋を、開けずにはいられない。
　椅子に腰を下ろさずにいられない。
　触れずにはいられない。鍵盤に。
　白と黒とに。
　最初の一音を鳴らしたとたん、もうたまらなくなって紗月は指を踊らせていた。
　奏でるのは、モーリス・ラヴェル「水の戯れ」。
　紗月にとっては原点とでもいうべき曲だった。
　この曲に魅入られて、自分の生きる道はピアノにある──と思わせられたのだから。
　今にして思えばそれは錯覚でしかなかったのだけれども……。

　指先から紡ぎ出されるのは清らかな水音のような音色。
　それは形を変えて滴り落ちる音のしずく。

　夢中だった。
　自分が音楽を奏でているのではない。
　音楽が、自分を使って世界に流れ出しているのだ。
　そんな錯覚にとらわれた。
　繊細な旋律を刻む右手。
　妖精か魔物のように跳ねる左手。
　その両者が交差し、ときに合一してうねる。響く。
　羽ばたく。
　流れていく。

　クライマックスにさしかかった頃には、紗月は心なしか前のめりの姿勢になっていた。
　やがて訪れる静かな幕切れ。
　両手をピアノから離し、深い水底から浮かび上がったかのように深く息を吐きだした。
　背後に物音を聞いたのはそのときだった。
　我知らず紗月は小さな声を上げていた。
　胸がギュッと締め付けられる。
　見知らぬ少女がひとり、そこに立っていた。

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