水の島、寝子島｜リアクション

水の島、寝子島

　病室の窓から外を眺め。
「……もう夏なんだわ」
　深倉理紗子はぽつっと呟いた。

　寝子島総合病院に内科医として勤める理紗子は、多忙な日々を送っていた。
　早朝出勤し、白衣に袖を通すか通さないかのうちに彼女の１日は始まる。当直医からの連絡ボードに目を通し、看護師から担当患者の具合を聞き、入院患者の朝の検診内容を読んでいる間に、診察室には最初の外来患者が通される。
　問診の合間を縫うように製薬会社の営業がやって来る。相手をするのが面倒なときもあるが、新しい知見のため、情報収集は欠かせない。回診。会議。同僚との意見交換。出張。県外で行われるシンポジウムへの出席。
　休息らしい休息もないまま、ひたすら目の前のスケジュールをこなすだけの日々を送っていて、ふと窓の外に意識を向ければ、季節が変わっていた。
　ついこの前まで春だったのに。
　そう思わずにいられない。
　春らしいことをあまりしなかったせいだ。
　たぶん、そう考えたせいだと思う。
　気付けば理紗子は水着の入ったビーチバッグを手に、海岸まで来ていた。

　休日出勤の代替休日。いつもだったら今ごろまだ部屋で寝ていただろう。
　蒸し暑さで目が覚めたこともあるが、それだけだったら、たぶんそのまま部屋でぼんやり休んでいたはずだ。
　何か夏らしいことをしてすごそうと考えた結果が海というのはいかにもだと思わないでもないが、来てしまったからには楽しまなくては。
　頭を切り換えよう。仕事のことは頭から追い出して、楽しまなくては。そう考えて脱衣所へ向かう。
　水着はパステルブルーのビキニ。友人によれば、これを着た理紗子は清楚な印象を与えるらしい。とてもいい、ということだった。
　めったに着ないのが残念だ、とも。
（……そういえば、海に泳ぎに来るなんて何年ぶりかな……）
　気分転換に波打ち際を歩くくらいはあるけれど。
　今回は水着だから、泳ぐこともできる。そう思い、わざと波打ち際へ走った。
　打ち寄せる波とたわむれ、波に引かれるまま海へ入り少し泳いだりもする。
　少し声も出して、はしゃいだり。
　少し疲れたのでそろそろ休憩をとろうかと海の家に向かおうとしたところで、自分を呼ぶ声……忘れもしないその声が聞こえた。
　そこにいたのは、親友……の真瞭。
　だけど、その声、姿を見るのは何カ月ぶりだろう？
　心臓が跳ねて、胃がひっくり返るような感覚に陥って、無意識におなかに手をあてていた。
　だけどそれは向こうも同じ。真瞭の唇が青く見えるのは、長く海に浸かっていたからじゃない。たぶん。
　そう思うと、少しだけ緊張が緩んだ。

「久しぶりだね、まーちゃん」
「りさちん……元気にしていた？」

　理紗子はゆっくりと、長く、時間をかけて息を吐いた。
「元気よ。あなたは？」
　少し先の砂浜に広げられたレジャーシートへ真瞭は向かっていた。彼女の物なのだろう。
　大丈夫。ちゃんと声は出た。驚いたけれど、逃げたくなるような衝動もない。足も動く。大丈夫。
　会話を続けながら、真瞭の元へ行った。
　話はできる。
　だけど、表面ばかりで少しも話ははずまない。
　互いに目をそむけあっているからだと、すぐに気付いた。
　わかっているくせに。忘れても、なくなってもいないのに、お互いそれに触れることを避けている。
　また同じ痛み、気まずさを思い出すよりも、何でもないことだと避けて、なくなってしまったことにしようとしている。
（膿んだ傷は切開しなくては完治しないと知っているのにね……）
　きっと、友達にはなれるだろう。２人とも、そうする術を知っているから。
　でも親友には戻れない。
　日焼け止めを塗り、背中を太陽にさらすようにして２人並んで俯せになって、うつらうつらしながら理紗子は思う。
（私は、どちらを望んでるのかしら）
　――わからない。
　そうして理紗子は目を閉じた。
　