【海開き】賑やかな夏のはじまり｜リアクション

【海開き】賑やかな夏のはじまり

　海の家を巡っていた巫部紫苑が足を止めた。
　スタート地点の幟で主旨を理解した。ぶら下がっていたパンに注目する。赤い瞳に熱が籠り、だらしなく唇が開いた。
　――あのパンは美味しそうですね。
　紫苑は胸を弾ませてスタート地点に向かう。開いていた日傘は畳んで店主に微笑み掛けた。
「私も参加したいと思います。ご迷惑とは思いますが、日傘を預かっていて貰えないでしょうか」
「あ、はい、わかりました。あの、本当に参加で、よろしいのですか？」
　店主は逆に聞き返す。大きく迫り出した胸は頼りない生地に辛うじて押し止められていた。
「もちろんです」
　にっこりと笑って参加者の中に加わった。
　スタートラインに立った瞬間、表情が変わった。戸惑いの色が濃い。
　――これは驚きました。ヌルヌルで立っているのも難しいですね。
　その不安定な状態は胸にまで伝わった。独立した生き物のように重々しく揺さぶられた。
　観客は驚きと動揺を合わせたような低い声を漏らす。
「スタートです！」
　店主の声が高らかに響き渡る。
　紫苑の最初の一歩が空を蹴る。支えていた別の足も滑って背中からシートに倒れ込んだ。大きな胸は上下に激しく暴れた。押さえ付けていた生地が踏ん張り、外に零れる事態には発展しなかった。
　観客は失意に項垂れ、落胆したような低い声を漏らした。
「転んでしまいました」
　当の本人は微笑んだ。もがくようにして上体を起こした。内股で座るとオイルに塗れた手を鼻に近付ける。
　――天然素材みたいですね。お肌に良さそうです。
　オイルを手で掬って胸元に垂らした。肩や腕を撫でるようにして塗りたくる。
　失意から一転。興奮の波が打ち寄せる。
「どうしたのかしら」
　紫苑は濡れ光る肉感的な身体であどけない表情となった。その姿でぶら下がっていたパンを眺める。
　――どのようにして、あそこまで行けばいいのでしょうか。
　座った状態で考えた。周囲の参加者達も不安定な足場に苦戦していた。ふらつく足で歩こうとして引っ繰り返った。
　紫苑はパチンと手を合わせた。座った状態で太腿を前後に動かして進んだ。オイルに塗れた上半身が左右に揺れる。その動きに胸が同調した。
　観客の息遣いが激しくなってきた。異様な熱気に包まれた。
「どうしましょうか」
　紫苑はパンを見上げた。垂らした糸の部分が長い。子供用に思える。座った状態では届かない。口に咥える為には、それなりの努力が必要であった。
　――座った状態でも届くかもしれません。試してみましょう。
　紫苑は背を丸めた。伸ばした瞬間、身体全体を使って弾んだ。
　パンを口に咥えて着地した。
　――少し出ましたね。
　極端に食み出た部分を手で押し込む。
「ちょおおおお！」
　少年が声を上げた。自身の目を両手で塞いで背を向けた。
　紫苑はにこやかな顔でゴールした。順位は悪かったものの、本人の機嫌は良かった。
　――このパン、美味しいですねぇ。食感と味の調和が素晴らしいですね。今度は店に買いに行きましょう。
　食べ終わると店主から日傘を受け取った。海の家に背を向けて海へと向かう。海水で身体のオイルを洗い流す。
「食べ歩きを再開しましょう♪」
　海の家を見て上機嫌で言った。