【海開き】賑やかな夏のはじまり｜リアクション

【海開き】賑やかな夏のはじまり

　星ヶ丘寮の自室に三宅葉月は籠っていた。広い空間はしんとして深山を思わせる。
　葉月は暗い顔をした森の精霊として机と向き合っていた。机上には留学先の案内や関連する資料が積み上げられていた。歪な岩と似ている。開いたノートには父親との確執が断片的に書かれ、所々が黒い線によって塗り潰されていた。
　葉月は無造作に手を振った。岩は呆気なく崩れた。表情が少し明るくなった。
「しばらくは……何も考えたくないわ」
　そっと本音を呟き、室内を巡る。
　用意を整えた葉月は導かれるように外へと出ていった。

　緑の瞳が丸みを帯びた。防風林の一本に軽く手を触れる。寝子ヶ浜海岸はレジャー施設のような賑わいを見せていた。
　――静かな海はどこに？
　特設ステージに目が留まる。上部に海開きを示す、横断幕が残されていた。
「知らなかったわ」
　葉月は目を伏せた。数秒の沈黙のあと、来た道を振り返る。暗い顔を振り払うような素振りを見せた。

　緩やかな斜面に一歩を踏み出す。パレオを軽く摘まんで歩いた。吹き付ける風に涼しげな目を向けた。
　黒いビキニは神秘的で緑の瞳は穏やかな湖面を彷彿とさせる。森の精霊の見目は美しい。それでいて近寄り難い雰囲気を纏い、人の目を引き付けながら海へと向かった。
　葉月の素足が波に触れる。何も躊躇わず、身体を浸していく。
　軽い一蹴りで陸地と別れた。長い黒髪を身に纏わせて見事なクロールを披露する。波の抵抗をほとんど受けず、一定のペースを保って泳いだ。
　速度が落ちた。ゆっくりとした動作で海水を左右に掻く。平泳ぎの姿で海面を滑るように進んだ。
　直後に飛沫が上がった。上体が浮き上がり、全身を波打たせて泳ぐ。突然のバタフライに近くにいた人々は立ち泳ぎとなった。海面を飛ぶように前進する葉月に目を奪われた。
　最後は背泳ぎとなった。誰かを誘うかのように手を挙げて、耳の横を掠めるように振り下ろす。左右の腕を交互に動かした。
　静謐な湖面で水と戯れる精霊に全ての人が見惚れた。
　その視線を嫌うかのように葉月は海中に沈んだ。
　海底に光の帯が落ちてきた。柔らかい波形は光のオーロラに見える。海藻は楽しそうに身をくねらせていた。
　そこに葉月が加わる。海底の砂地に足が着いた。時の流れが緩やかになった世界でのんびりと歩いた。
　腰に巻き付けていたパレオが広がる。描かれた蝶が海中を揺らめきながら飛んだ。
　小さな魚達が葉月の周りを泳ぐ。髪飾りの青白い薔薇の中に何匹も潜り込もうとした。ひらひらと漂うパレオにも魚達は群がる。
　森の精霊は小さなお供を引き連れて海底散歩を楽しんだ。口角から真珠のような泡粒が漏れる。
　葉月は魚達に優しげな視線を向けた。別れを意味するのか。柔らかく微笑むと浮上を開始した。目を細めてゆっくりと海面から顔を出す。
　急に世界が騒がしくなった。
「もっと静かなところに……」
　クロールで人気の少ないところに向かった。
　葉月は立ち泳ぎの姿で砂浜を眺める。パラソルが小さな花のようだった。人は小さく、声も聞こえて来ない。
「静かね」
　仰向けになる。海と一体になってゆらゆらと揺れる。全身の力を抜いて自身を委ねた。
　何もない時間が流れる。心に溜まっていた不満が洗い流されていく。安らぎの表情が語っていた。
　僅かに開いた唇が囁く。
「……何も……考えたくない……」
　葉月は安らかな眠りに就くかのように瞼を閉じた。