寝子島食べ尽くし紀行｜リアクション

寝子島食べ尽くし紀行

【神の飲み物】

　世の中には、一つのメニューをこよなく愛する人々が存在する。
　それはラーメンやパスタ、お好み焼きだったり、紅茶、コーヒー、ワインだったり。

　その中でも、特に日本において多くの人々を魅了する食べ物があった。

　美しい金色を思わせるスープに、多種多様な食材が浮かぶ。
　芳しい複雑な香りは異国情緒を感じさせつつも、人の心をつかんで離さない。
　そして刺激的な辛みの内に潜む、舌を愛でる豊かな味わい。

　カレー。
　そう。神の食べ物、カレー。
　食への愛は、幼いときに初めて食べたカレーに始まり、最終的にカレーに還るのだ。

　そんなふうにカレーに心酔している人物に、いくら食べても良いという許可証が渡ればどうなるのか。
　火を見るより明らかだった。

　＊　＊　＊　＊　＊

「『寝子島食べ尽くしチケット』さまさまじゃあ！」

　鬼河内巌は『カレー焼きそばパン』を頬張りながら、その絶妙な風味に思わず声を上げた。
　が、慌てて声を抑える。

　いかんのう。カレーを口にすると、ついつい我を忘れる。

　電信柱にいかつい身体を隠し（たつもりで）、巌は自身を戒めつつパンを齧った。

　今の彼は、絶対に目立つわけにはいかない立場だったのだ。
　妹の鬼河内萌を、影から見守っているのだから。

「大切な妹を守るのは、兄の務めじゃけんのう」

　他人の目から見れば監視以外の何物でもなかったが、巌にとっては至上の使命。

　怪しいと思ったのだ。

　郵便受けに入っていた送り主不明の封筒に『寝子島食べ尽くしチケット』が二枚入っていたとき、巌は当然、妹を誘った。
　寝子島のカレーを食べ尽くす。それこそ、このチケットの最高の使い方。
　それは自分と同等のカレー好きであり、『究極のカレーを求める会』現会長である萌との共通認識のはずだった。

　だが、しかし。返ってきた答えは否。

「え、えっと、その。……たまには一人で回ってみようかなぁ、なんて」

　可憐に頬を染めつつ、そう言った萌。
　巌にとっては西から昇った太陽を目の当たりにしたような、ありえない言葉だった。

　同時に、天啓のごとく脳裏に閃く。

　一人で？　本当に一人なのか？　『あの男』が関係しているのではないか？

　故に、巌は決心したのだ。当日、妹をつける。もとい、見守ることを。

　本当に一人で回るなら良し。そうでないときは、兄として妹の身を全力で守ろう。

　そして、予想通りの光景に直面する。

「……やはりユウと逢い引きじゃったか」

　片手にさげた重々しいビニール袋から『カレーコロッケパン』を取り出しつつ、巌は眼光を鋭くさせた。

「ッ！」
「大丈夫？　風邪？」
「いや、なんかゾクゾクッとしたんだよね。なんだろ」

　野菜原ユウは萌から渡されたティッシュで、出てもいない鼻を拭いた。
　カフェのオープンテラスで、注文した特製カレーライスを待っている最中、急に背筋に冷や汗が流れたのだ。

　少し前に、似た経験をしたことを思い出す。
　卒業生を送る会で、たっぷり味わったあの恐怖。

「お待たせしました。当店自慢の特製カレーライスです。ごゆっくりどうぞ」
「わぁ、来た来た！　これ、関東でも指折りのカレーなんだよ。早く食べよう！」
「あ、ああ。すっげ、美味しそうじゃん」

　気を取り直して応えるユウだったが、カレーの芳しい香りがさらに記憶を蘇らせる。

　まさか、ねぇ……。

　特製カレーの美味しさに眩しい笑顔を浮かべる萌を前にして、カレーを口に運んだその瞬間だった。

　通りを挟んだ向こう側にある電信柱の隣に、今は絶滅したといって過言ではないバンカラ姿を目にしたのは。
　しかも、ばっちり視線が合ってしまった。

　凍りついた喉を、熱く刺激的な液体が滑り落ちていく。
　吹き出さなかったことが奇跡。

「あ、やっぱりユウくんも気に入ってくれたんだ？　この独特なスパイスの香りと味わいは、他のカレーとはぜんぜん違うよねぇ」

　そんなユウの姿を、カレーに感激したと勘違いした萌はますます楽しげに食事を再開した。

　今日は楽しい日になりそう。
　『寝子島食べ尽くしチケット』のおかげで、好きなだけカレーが食べられるし。
　ユウくんを誘うこともできたし。
　お兄ちゃんには悪かったけど、また今度一緒に食べに行けばいいよね！

　知らぬは妹ばかりなり。

　巌の視線にさらされて、大量の脂汗をたらすユウ。
　それすらカレーによる発汗だと思って、笑ってハンドタオルを渡す萌。

　灼熱と極寒と常春の食事ツアーは、まだ始まったばかりだ。

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寝子島食べ尽くし紀行

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