『柊の湯』、マナーを守ってご利用下さい！｜リアクション

『柊の湯』、マナーを守ってご利用下さい！

　何回か訪れたことがあるが、あまり人の気配がしない。
理紗子が中へ入ると、真斗が読んでいたらしい本を置いて立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは……。入るね」
「どうぞごゆっくり」
　彼に会釈をして、足湯場へ。
「なんだか静かね」
　案の定、人の気配がしなかった。
「……もしかして、今の客ってわたしだけ？　ええ？　どうしよう」
　ヘタレでビビりな小心者の彼女は一瞬、戸惑いつつもおずおず、といった態で湯に足をつけた。
「あ……丁度いい」
足先からじんわり。足元から疲れが抜けていくような感覚に思わず目を閉じる。やっと一息付けた、と感じる。程よい温度の湯加減を存分に堪能……しようとしたら、いきなり顔にお湯をぶっかけられた。
「ぷはっ！？　きゃっ」
　慌ててお湯が飛んできた方向へ視線を向けると、いつの間にかキツネの尻尾をつけた女の子達が足湯場ではしゃぎ回っていた。
「おもしろーい！」
「来てみてよかったね！」
　そんな会話をしながら、暴れ放題だ。
「こ、この子達」
　と、近づいてきた女の子が再び近距離で湯をかけてきた。
「ちょっ、待ちなさい」
　逃げようとしたその子の両肩を捕まえて、抱き上げる。
「わわっ」
　見た目よりかなり軽かった。
　反対向きにして膝の上に座らせる。
「こんなことしてはダメ」
「でも、楽しいよ？」
　女の子は尻尾を振りながら、笑顔を向けてきた。
「楽しくても、ここはそうやって遊ぶようなところじゃないのよ」
出来るだけ優しい口調で諭す。
夜間診療の際、このくらいの子供を診察することはよくある。大抵は急な高熱でぐったりしていて、親に抱かれて運ばれてくるのだけど。
「水浴びはこういう風にするんだよ。お姉さんもやってみて」
「だめよ。水浴び場じゃないの」
　理紗子は人差し指で女の子の額をツンと突く。
「楽しいのに……」
　拗ねたように頬を膨らませる女の子。
「わかった？」
「……うん」
「じゃあ、ここにいてくれる？　他の子を捕まえてくるから」
「！」
　何故か目を輝かせた女の子は理紗子の背中に回り込み、肩に飛びついた。
「お姉さん、おんぶして！」
「え、ええ？　うう、仕方ないわね」
　理紗子は女の子を背負って、立ち上がった。思い思いに走り回っている女の子達を見回す。
「どの子から捕まえようかしら」
　と、勢いよく走ってきた女の子が理紗子の足元で足を止める。
「あー、いいなあ、おんぶ！」
　チャンスだ。
　理紗子はすばやくしゃがみ込んで両肩を掴む。
「捕まえた」
「捕まっちゃった」
　無邪気に笑う女の子は悪びれもせず。きちんと正しいマナーを教えなくては。
「いい？　ここは足だけをお湯に浸してのんびりゆっくりするところなの。だから、こんなふうに遊ぶのは良くないのよ」
「足だけ？」
「そう。座って足を温かいお湯につけると、体の中がほわほわしてくるの」
「ほわほわ？」
「やってみない？」
「うん！」
　それから一人ずつ声を掛け、無事全員を座らせることができた。
　ゆっくりと湯に足をつけることで、気持ちよくなって来たようだ。身体の力を抜いて、表情を緩めている。
　理紗子は女の子達のそばで伸びをした。
「んー……。小児科医になった気分ね」
　今後の参考にしよう。結局、仕事のことは忘れられていないことに気づいて、一人、苦笑いを浮かべるのだった

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