また、降ってきた｜リアクション

また、降ってきた

　―――予報では曇りだったはずなのに。
　厚く垂れ込めた雲からぽつりぽつりと落ちてきた水滴は、やがてさあっと薄いカーテンのように街を包む。御巫時子は小さく溜息をつくと、持っていた赤い和傘を静かに開いた。
　学校のない土曜日。雨で人通りの少ない道を、制服姿の時子はゆっくりと進む。明度も彩度も失われた街に鮮やかに咲く赤い和傘。その美しい花が、ぴたと止まった。
「尚輝先生……？」
　和傘が覗き込むように傾く。軒先で前髪から水を滴らせていた五十嵐尚輝が振り向いた。
「ああ、御巫さん」

「こんにちは、尚輝先生……。どうされたんですか？　濡れてしまってますね」
（少し肌寒くなっているし……風邪をひかれなければいいけど）
　時子はポケットからハンカチを取り出すと、ちょっと背伸びをして尚輝の額を拭う。いつもは隠れて見えない尚輝の瞳が持ち上げられた前髪から現れ、真っ直ぐに時子の瞳を捕らえる。その不意打ちに時子は思わず赤くなってその手を止めてしまった。
「ありがとう、御巫さん。……でも、ハンカチが濡れてしまいますよ」
　尚輝は止まった時子の手を自分の手でそっと包むと、優しく押し下げる。そして「大して濡れてませんから」と言うと自分のシャツで無造作にわしゃわしゃと頭を拭き、制服姿の時子に首を傾げた。
「これから学校に行かれるんですか？」
「あ……は、はい。忘れ物をして」
　また隠れてしまった尚輝の瞳。我に返った時子が頬をほんのりと染め、頷いた。

　それは、尚輝専用にしているお弁当箱。
　昨日、尚輝に渡したお弁当箱を理科室に取りに行ったはいいが、尚輝と話をしていたらうっかり持ち帰るのを忘れてしまったのだ。
　しまったと思ったのが昨夜。時子はその日に取りに戻るのはあきらめ、今日にしたのだ。
　また月曜には栄養を考えたお弁当を尚輝に渡したいから。自分の体に無頓着な彼の、少しでも支えになりたいから。

「―――ああ、それは奇遇ですねぇ。僕も学校に行く途中でして」
　思いもかけない返答に、時子は弾かれたように尚輝を見た。
「先生もですか？　何か実験でも？」
　実験の虫である尚輝が理科室に入り浸っているのは周知の事実だ。この場合の時子の問いは至極正しい。が、しかし。
　尚輝は時子の前で照れくさそうにぽりぽりと頭を掻いた。
「いや、その……御巫さんの作ってくれたお弁当箱を忘れてしまっていたので……」
「え？！」
　時子の声が裏返る。尚輝はまいったというようにははと笑った。
「すみません。昨日、僕渡し忘れてましたよね……。せめて洗ってお返ししようと思って」
「いえ、そんな、いいんです！　私が好きでやってる事ですから」
　和傘の柄を握りしめ、時子は懸命に首を振った。顔が赤くなるのを押さえられない。先生と、同じ目的で学校に向かっていたなんて。
「実は私の忘れ物は、そのお弁当箱なんです。だから、先生がご足労される事はないです」
「そうだったんですか。いや、御巫さんこそいいですよ。僕が行きますから」
「いえいえ！　そういう訳には」
　しばらく２人は押し問答をしていたが、真剣な時子に尚輝の唇がふっと綻んだ。
「―――じゃあ、一緒に行きましょうか」
　ひょいと尚輝が軒先から出る。慌てて時子が差し出した傘の柄を、尚輝がしっかりと握った。
「僕がさしましょう」

　灰色の街に、赤い和傘が鮮やかに咲く。
　その下にいるのはひょろりとした教師とお下げの女子高生。
　気象の話に興が乗り始めた尚輝の横で頷く時子は、どこかぽおっとしている。
　肩が近くて。見上げればすぐ傍に貴方の顔があって。
　知っている。彼が私の方に常に傘を傾けてくれている事を。
　―――学校が、もっと遠ければいいのに。

　少しだけゆっくり時子は歩く。尚輝は、急かさない。

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