夢の爪痕｜リアクション

夢の爪痕

　何もない、真っ白な空間だった。
見渡す限り真っ白で、視界を遮るものは何もない。いや、あってもわからない。
自分が薄羽白露であるという意識はあるものの、歩いてみても足が見えない。
えっ、と驚いて目の前に手を持ってきてみた、つもりだが、
手がどこにあるのかもわからない。
このぶんだと見えない部分……顔や頭なんかも、存在しているかどうか怪しい。
だれか、と声を出してみるものの、周囲には誰もいないし、
自分の声が自分に聞こえているかどうかもあやふやだ。
そもそも自分が座っているのか、立っているのか、横になっているのかさえ分からない。
　何もない、真っ白な空間だった。
見渡す限り真っ白で、でも、それを「見て」いる自分は、何色をしているのか
自分でも全くわからない。
とうとう自分という存在の根本を疑い始めた時、白露は唐突に目が覚めた。

　ベッドの上で目を覚ました白露の耳に聞こえるのは、目覚まし時計の甲高い電子音。
今度は、ちゃんと聞こえている。
腕を持ち上げてみればきちんと目の前には五指の揃った手があらわれ、
足を動かせば軽い軋みと共にベッドが揺れた。
体を起こせる。耳も、目も、機能している。
見渡せば広がるのはちょっと散らかった自室だし、壁もあれば扉もある。
「……なんか、微妙な夢だったな」
　そうひとり呟いて、白露はベッドを抜け出した。
悪夢というほど嫌悪感はなく、けれど吉夢というには空虚すぎる夢。
もっとよく考えれば何か意味も見いだせるのかもしれないが、
あいにくと、白露にはあの夢についてこれ以上深く考えるつもりは毛頭なかった。
それよりも、この微妙な感覚を一刻も早く自分の中から締め出してしまいたいと思った。
普段であれば、人好きのする笑みを浮かべて誰かとおしゃべりに興じるのが一番の気分転換だが、
不思議と、今はそんな気分にはなれない。
夢のことが気にかかって、会話に集中するのも手間取りそうだ。
仕方がないので、白露は一人でのんびりと島の中を散歩して回ることにした。

　午前の光の中、九夜山のふもとの名もない小川を眺めたり、枝葉の影から飛ぶ鳥を眺めたりして過ごす。
できるだけ人のいない、自然が多い場所を選んで歩いていた。
何故かわからないがそのほうが心安らぐと本能的に知っていたのかもしれない。
午後は裏路地の野良猫と目配せしあったり、五月の風に揺れるたんぽぽを眺めたり。
天気も良く過ごしやすく、散歩には最適の季節だ。
そうして歩いているうちに、白露は偶然、夕日が沈む海辺にたどり着いた。
燃えるような夕焼けが、少しずつ少しずつ水平線の向こうに落ちてゆく。
聞こえるのは涼やかな潮騒と、波の音の合間に誰かの叫び声……叫び声？
耳を澄ませてみるが、助けを求めているわけではなく、ただただ叫んでいるだけのようだ。
もしかしたら彼も、なにか変な夢でも見たのかもしれない。
そうして沈む夕日を眺めながら少し笑って、
日が沈みきったら今度は月を眺めながらのんびり帰路に就く。
家に帰りつく頃には、朝見た夢のことなんて白露はすっきりさっぱり忘れているのだった。

このページにイラストを設定する