夢の爪痕｜リアクション

夢の爪痕

　綺麗に整えられたベッドの中、八神修は何の前触れもなくぱちりと目を開いた。
今しがた、なにかとんでもない夢を見た、気がする。
　夢の中で修は六つの門を抜け、最後に銀の鍵の門を開いた。
門の先に広がっていたのは、どこの世界線にも属さない、しかしすべての世界線に接する場所。
そこに座しているのは時間も空間も超越した、
過去現在未来すべてに一様に関わりまた関わらない概念的な神性の……。
　そこまで思い出して、修は考えるのを止めた。
あの夢から抜け出せたのは、ひとえにダイスの目、つまり修の悪運の強さのおかげだ。
それを再度思い出してしまうわけにはいかない。幸運の女神はそう何度もウインクをしてはくれないものだ。
一つ溜息をついてベッドから起き上がる。
とりあえず、今見た夢を忘れてしまわなければ。

　修の気分転換の方法はいくつかある。
その中から適宜、自身の状態に合ったものをチョイスしていくのが修のやり方だった。
今回の場合は悪夢の記憶をなるべく思い起こさないように、
かつ心に残さずできる限り完全に消して忘れ去ってしまうことが重要だった。
夢というものは、たいていは起きてしばらく経てば忘れるもの。
嫌な夢が長く記憶に留まっているように感じるのは、
嫌な夢ほどついつい何度も思い起こしてしまうせいだ。
つまり、今回の場合、悪夢を思い出す暇がないほど集中して頭を使う何かをすれば
嫌な夢は記憶にとどまることなく、
外なる神の元に飛んで行って……いやいや思い出しては駄目だ。
頭を使うなにか、といえばやっぱり勉強だろう。
科目は、数学。
　単純に勉強と言っても、修の好む勉強は
学校でやるような単純な学習作業とは趣が違う。
暗記力や知識の多さはさほど重要視されず、
適切な解法を導き出せる閃きや論理的思考こそが正答への近道となる。
どちらかというとパズルに近い感触だ。
そういった難問をたくさん集めた本を、修はいくつも持っていた。
難問集、数学検定一級本、数学オリンピックの難問……
どれも学校の勉強を基礎としていながら、必要とされる能力は全くの別物である。
修はさっそく本棚から一冊引っ張り出して、机の上に広げて解き始めた。
　紙面に並んだ難解な数式の数々。
難攻不落の城を攻め落とすように、組み合わさった城壁の僅かな手がかりを探して
ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返していった。
手強い強敵に挑みかかるような高揚感、思考回路が覚醒して冷えていくような集中。
あらゆる多角的な面から解答案を導き出し、試していく。
ひとつの解法にこだわらず、少し発想を変えれば簡単に解けそうな問題のもやもや感や
それが解けた時の解放感は格別だ。
時に敗北することもあるが、その時はまた別の解法を試せばいいだけのこと。
数式の上でダンスを踊るように、修は次々と難問を解いていく。
　時に紅茶で一息入れたり、ペットの猫たちと遊んでやったりもしながら
頭の隅では先ほど負けた戦いの反省点を洗い出している。
ふと、解法を閃いた瞬間などたまらない。
これ以外にないと思えるほどに美しい数式と共に導き出された解答が正しかった時の爽快感。
勝利の快感に酔いしれながらも、手は既に次なる強敵を探して手元の本のページを捲っている。
　そうして難問を解き続けていれば、いつしか悪夢のことなどきれいさっぱり記憶から消え失せ、
あるのは一種のトランス状態を抜け出した時の痺れたような心地よい快楽。
全力で戦い抜いた清清しさと、勝利の証である少しの疲労。
もう一杯紅茶を飲んで勝利の余韻を味わおうと、修はキッチンへと向かうのだった。

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